多くの連絡手段がある現代の私たちの中にはあまり頻繁に手紙を書くことはない、という方もいると思います。
しかし、当然のことながら戦国時代のころにはメールも電話もなかったため、手紙が重要な連絡手段でした。
では、戦国大名たちが書いた直筆の手紙が現代まで残っていると思われがちですが、実はそうでもありません。
筆不精だったり、代筆させるなどの手段があったため、直筆の手紙はそれほど多くはないのです。
しかし、豊臣秀吉は意外にも多くの直筆の手紙を残しているようです。
送り先は正室や家臣、そしてわが子である豊臣秀頼など。
一体どんな手紙があるのでしょうか。
目次
右筆衆から五大老まで
戦国時代、今のようにメールなどの連絡手段が多くはなかったとはいっても、政治に必要なすべての文書を戦国大名自身が書いていたわけではありません。
実は、当時文書などの代筆をする仕事をする人々がいたのです。
それを右筆(祐筆)といいます。
豊臣秀吉にも代筆をこなす右筆衆がいました。
例えば、石田三成、長束正家、そして増田長盛など。
この右筆という役職を経て、のちに五大老に選ばれる人物も多かったのです。
豊臣秀吉と手紙
豊臣秀吉は筆まめな人物であり、100点以上の直筆の書状が見つかっています。
現在でも、新しい直筆の手紙が発見されることも。
これは個人の収集家が集めていたりなどするものがたまに世の中に出て、新しい発見として注目されるためです。
これらはすでに確認されている直筆の手紙と文字の特徴などを照らし合わせ、直筆かどうかを判断します。
そうして確認された直筆の手紙の中でも、豊臣秀吉は家臣や正室、側室へと多くの手紙を書き送っていたことがわかっています。
幼子に手紙?
豊臣秀吉が度々手紙を書くのは織田信長の部下だった頃からでした。
そのころには家臣にどのくらい給与を払うかの指示を書いた書状を送っています。
豊臣秀吉の手紙は正室や家臣当てが多く、茶々あての手紙は少ないものの、病の治療のため、お灸を我慢して受けたことを褒め、褒美にサンマを送ると書いた手紙も見つかっています。
人たらしと呼ばれる豊臣秀吉らしく、相手を細やかに気遣っているのが手紙から読み取れる手紙です。
また、豊臣秀吉は子供を愛するあまり、まだ字の読めないわが子、豊臣秀頼にも手紙を書き送っていました。
その送り先の名前は「おひろい」。
これは豊臣秀頼の幼名でした。
そして、署名の部分には「ととより」とあります。
豊臣秀吉が愛する我が子、豊臣秀頼あてに送った、父親の顔を見ることが出来るその手紙には、淀殿に口を吸わせてはならない、油断するんじゃないぞ、という内容が書かれています。
天下人、豊臣秀吉は秀頼を目に入れてもいたくないほどかわいがっていたことがこの手紙から読み取れるのです。
人の書いた手紙からはその人の素の性格が読み取れます。
それは豊臣秀吉も例外ではありません。
豊臣秀吉の書いた手紙からは、天下人としてだけではなく、わが子である豊臣秀頼に対する父親の面を読み取ることが出来るのです。