豊臣秀吉の主君といえば、織田信長。
それはよく知られていることであり、信長の草履を豊臣秀吉が懐で温めていたという逸話もとても有名です。
しかし、そんな織田信長と豊臣秀吉の出会いといえば、知らない人が多いはず。
実際、豊臣秀吉がなぜ織田信長に仕える事になったのかということについてはいくつかの説があり、はっきりしたことはわかってはいないのです。
では、そんな織田信長と豊臣秀吉の出会いとは、いったいどんな説が伝えられているのでしょうか。
目次
秀吉が信長に仕えるまで
豊臣秀吉が織田信長に出会い、仕えるまでには、様々な仕事をしています。
早くに父を亡くした豊臣秀吉は様々な仕事をしなくてはいけない環境にいたのです。
そんな豊臣秀吉が織田信長に最下級の家臣として仕えるようになったのは1554年の事。
実はその前には違う人物のもとにいました。
それが今川義元の家臣、松下加兵衛という人物。
その人物に仕えてから豊臣秀吉は織田信長に出会い、そこから初めて織田信長の家臣として仕えるようになったのです。
叔父のおすすめで直談判?
豊臣秀吉が織田信長に出会い、仕えたきっかけは叔父が進めたため、とするのが『太閤記』です。
この『太閤記』では遠江で松下加兵衛に仕官していた豊臣秀吉が故郷に帰った時、叔父に織田信長に仕える事を勧められた、と伝えています。
そしてそのアドバイスを受け取った豊臣秀吉はなんと織田信長に直談判したうえ、家臣として仕える事になったとされているのです。
それが、『太閤記』の伝える織田信長と豊臣秀吉の出会いでした。
幼馴染の力を借りる?
一方、『太閤素性記』では豊臣秀吉と織田信長の出会いについて、違う説を伝えています。
それが、豊臣秀吉が幼馴染の伝手をたどって仕えた、という説。
『太閤素性記』では、織田信長の小人頭となっていた豊臣秀吉の幼馴染、一若という人物と再会した豊臣秀吉がその伝手をたどって織田信長に仕えるようになった、と伝えています。
こうして比べてみるとわかるように、織田信長とのちの天下人、豊臣秀吉の出会いにはいくつかの説が伝えられているのです。
実際、当時の織田信長は人材不足のため、商人や農民からも使えそうな人材を集めていたというので、卑賤の出である豊臣秀吉が織田信長に仕えるようになったこと自体にはそれほど大きな疑問はありません。
ただ、伝える資料によって、どのような経緯で豊臣秀吉が織田信長に仕えるようになったのかが違っているのです。
どちらが豊臣秀吉と織田信長の出会いの真実なのか、はたまた全く違う出会い方をしていたのか。
いまだに豊臣秀吉と織田信長の出会いに関するその謎は解き明かされていないのです。