豊臣秀吉のしていた努力とは

戦国時代は数多くの大名や武士が戦う下克上の世の中でした。

織田信長も大きな戦力を持った戦国大名の一人です。

戦国時代を生きた大名は大きな力を持ち、武力によって多くの地を支配していました。

しかし、豊臣秀吉はそれまでの戦国大名とは少し様子が違うようです。

豊臣秀吉はそれまでとは違った努力によって支配をもくろんでいたのです。

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力以外で従わせるには?

戦国時代では、大名は多くの戦力を持ち、その力でほかの地を侵略、自分のものとしていった人物がほとんどでした。

しかし、織田信長の後継者として他の大名などを従わせるために豊臣秀吉が使ったのはそんな軍事的な力だけではありませんでした。

他の大名を従わせるために豊臣秀吉はそれまでにない方法を使う努力をしていたのです。

では、それはどういった努力で、どんな風に大名たちを従わせていったのでしょうか。

例えば、豊臣秀吉は1588年に京都に新築した邸宅である聚楽第に後陽成天皇を迎えてもてなしたという記録が残っています。

実はこのことが豊臣秀吉にとっては大名たちを支配下に置くための重要な目論見の一つでした。

豊臣秀吉はこの機会に、諸大名に対して天皇と豊臣秀吉への忠誠を誓わせるなど、伝統的な権威を使って支配し、統一していったのです。

豊臣秀吉はなるべく武力を使わず、このような方法を使って大名を従わせる努力をしていたことがうかがえます。

まずは経済力ありきの豊臣秀吉

豊臣秀吉が諸大名など、多くの大名たちを支配し、統一させるのに使ったのはそれまで使われていた軍事的な力だけではありませんでした。

大名たちを支配、統一させるために豊臣秀吉が頼った方法の一つは経済力だったのです。

豊臣秀吉は京都や大坂、堺や長崎などの重要都市を直轄にして豪商を統制下におき、政治や軍事などにその経済力を利用していました。

例えば堺の千利休、小西隆佐、博多の島井宗室、神谷宗湛などの商人の力を使ったのです。

さらに、金銀山を直接支配したり、南蛮貿易に力を入れるなど、自らの経済力を強める努力を怠ることはありませんでした。

豊臣秀吉は乱世の世を生き抜くため、軍事的な力だけに頼らず、経済力などの力を使うなど、諸大名を統制するために多くの努力をしていたのです。

すべてを利用した豊臣秀吉

このように、のちに天下人となる豊臣秀吉は多くの土地、多くの大名を支配するために様々な努力をしました。

自らは卑賤の出だったため、天皇など、武士の世の中で一目置かれる伝統的な権威を利用し、さらに自らの経済力を高めるなど、多くの地を支配するために努力を惜しまなかったのです。

更に、豊臣秀吉は世界最大の金貨とされる金貨も作り、それを恩賞などで手柄を立てた人物に対し惜しみなく与えるなど、人に心をつかむ努力も怠りませんでした。

豊臣秀吉は天下人となり、大名たちをまとめ続けるために陰ながらさまざまな努力をしていたのです。

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