豊臣秀吉と長浜城との関わり

その生涯で多くの城を築き、居城としてきた豊臣秀吉。

豊臣秀吉と関わりの深い城の中には大阪城や伏見城など、現在でもよく名前を知られている城が名前を連ねています。

そんな有名な城と比べると、少し地味であまり知られていない城、長浜城も豊臣秀吉と関りのある城の一つです。

しかし、一見それほど重要には思えないこの長浜城は、豊臣秀吉にとってとても重要な意味を持った城だったのです。

では、長浜城は豊臣秀吉にとってどんな意味を持っていた城だったのでしょうか。

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記念すべき最初の城

滋賀県にあり、豊臣秀吉が築城した長浜城は平城という種類の城です。

もともとは豊臣秀吉が浅井長政との戦いで手柄を立てたため、その褒美として豊臣秀吉の主君、織田信長から浅井家の領地の大部分を与えられたことがこの長浜城を建てるきっかけでした。

浅井家の領地を手に入れた豊臣秀吉が今浜(今の長浜)が交通の要所となると考え、作った城がこの長浜城なのです。

そして豊臣秀吉が城持ちの大名となったのはこの時が初めてでした。

豊臣秀吉にとって長浜城はその人生で最初の居城だったのです。

そのため、その後の生涯で数多くの城を築いた豊臣秀吉はこの長浜城を建てた時に、城の周りの城下町づくりなども初めて経験することになったのです。

城の材料はリサイクル品?

豊臣秀吉にとって、初めての居城となった長浜城。

長浜城の築城には、実はリサイクル品である材料を使っていました。

浅井家の領地を与えられ、築城を始めた豊臣秀吉ですが、そのために必要な材木は竹生島から運び、集めた領内の住民を使って築城工事を行っていました。

ただ、築城に使われたのはそれだけではなく、浅井長政の小谷城からも築城に必要な材料をを集めて使っていたのです。

豊臣秀吉はいわば材木をリサイクルして長浜城を築き上げていたのです。

長浜城の歴史

そうやって築いた豊臣秀吉の初めての居城、長浜城。

豊臣秀吉は1582年までこの長浜城を居城としていました。

そしてそののち、長浜城は他の者の手に渡り、奇妙な歴史をたどります。

1582年には清州会議によって豊臣秀吉と対立する柴田勝家の甥、勝豊のものとなりました。

しかし、豊臣秀吉はそれを良しとせず、同じ年の11月には降伏させたうえ長浜城を取り返しています。

そしてのちに賤ヶ岳合戦の拠点としてこの長浜城を使っているのです。

そのあとには豊臣秀吉の家臣である山内一豊が入るものの、大坂の陣の後、1615年には廃城になっています。

そして廃城となった後はその資材は彦根城の築城に使われました。

浅井長政の小谷城などから必要な資材を運び、築城された長浜城ですが、その長浜城も廃城になった後、資材が彦根城に使われるなど、同じような歴史をたどっているのです。

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