豊臣秀吉が溺愛した鶴松と秀頼とは

織田信長の後を継ぎ、一気に天下人にまで成り上がった豊臣秀吉。

大きな権力を手に入れ、思い通りに世の中を動かすこともできてさぞ順風満帆、と思いきや、一つだけどうにもならない悩みがありました。

それが後継者問題。

豊臣秀吉にはなかなか子が出来なかったため、一度はあきらめ、養子に関白の座を譲っているのです。

しかし、そんな豊臣秀吉にも遂に子供が出来ます。

遅くなって生まれたわが子を溺愛したと伝えられる豊臣秀吉。

鶴松と秀頼というその子供に対する豊臣秀吉の溺愛っぷりとは?

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鶴松誕生

豊臣秀吉は50歳を超えて、淀殿との間に子供を授かります。

それが鶴松でした。

幼名で棄丸という名をもらったこの子供を豊臣秀吉はとてもかわいがります。

しかし、鶴松は生まれつき病弱でした。

鶴松は1591年の1月に病にかかってしまうのです。

病に倒れたわが子、鶴松を心配した豊臣秀吉は、自身の持つ大きな力を利用して様々な医者を呼び集めようとしました。

曲直瀬玄朔など、名医とされる人物はもちろん、ポルトガルの医者まで呼び集めようとしたことが伝わっています。

しかし、そんな豊臣秀吉の行動もむなしく、鶴松は同じ年の8月5日に亡くなってしまうのです。

50歳を過ぎてやっと授かった鶴松ですが、わずか3歳で亡くなってしまい、豊臣秀吉は悲嘆にくれます。

わが子を弔うため祥雲寺を建立し、自分の子供を後継者にすることをあきらめ、甥の秀次に関白の座を譲るのです。

秀頼誕生

そんな豊臣秀吉に、再び子供が生まれます。

鶴松と同じく淀殿との間に生まれた子は「捨」という幼名をもらいました。

これが秀頼です。

この幼名は捨て子は丈夫に育つ、という民間の習俗にちなんで豊臣秀吉がつけた名前でした。

さらにその習俗にならい、松浦讃岐守重政を拾い親とし、秀頼は順調に育っていくのです。

秀頼を授かった淀殿に対し、子を産んでいない正室を慮り、手紙に子供は特に欲しくない、と手紙にしたためた豊臣秀吉ですが、秀頼に対する溺愛っぷりも現在まで伝わっています。

わが子のために大工事!

豊臣秀吉と淀殿との間に授かった秀頼。

豊臣秀吉が57歳の時に生まれた秀頼を、豊臣秀吉はことさら可愛がりました。

一度は甥の秀次に譲った関白の座を秀頼に譲りたい、と思うほどに。

更に、秀頼を伏見城に迎えるために伏見城の拡張工事まで行っているのです。

そうして1596年、幼名の「捨」から秀頼へと名を変えます。

豊臣秀吉が50歳を過ぎて授かった鶴松と秀頼。

どちらも豊臣秀吉は溺愛し、鶴松が病気になれば多くの名医を集め、伏見城の拡張工事まで行って秀頼を迎えるなど、天下人の力を思い切り使った行動をとっています。

人生50年とされていた時代に、50歳を過ぎて授かった子供だったため、その喜びもひとしおだったのです。

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