豊臣秀吉の見逃しがちな天下統一後

多くの戦国大名の中を勝ち残り、天下人となった豊臣秀吉。

もともと卑賤の出であった豊臣秀吉が最終的には天下人となって大きな権力を手にする、というところに注目されがちですが、豊臣秀吉の凄さは天下統一後にも見て取ることが出来ます。

天下を取るまでの過程に比べたら見逃されがちな豊臣秀吉の天下統一後ですが、いったいどんなことをしていたのでしょうか。

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天下統一はどの時点?

豊臣秀吉の天下統一後のことを知るためには当たり前ながら天下統一がどの時点でなされたかを知ることが必要です。

豊臣秀吉が天下統一を達成したのは、1590年の小田原攻めで北条氏政を滅ぼし、その勢いで東北の諸大名を服属させたとき。

そのあとに甥の豊臣秀次に関白の座を譲ったことで、豊臣秀吉自身は太閤となりながら、政治の実権を握った時に天下統一後の政治を行う基本体制が出来たといえます。

天下をとり、甥に関白の座を譲りながらも自身で政治の実権を握っている状態が豊臣秀吉の天下統一後といえるのです。

豊臣政権の弱点は?

天下統一を成し遂げ、天下統一後も実権を握り続けた豊臣秀吉。

そんな豊臣政権には、大きな弱点がありました。

それが、ほぼ豊臣秀吉による独裁状態だったことです。

豊臣秀吉は身内が少なかったり、子が出来なかったせいもあり、それまでの戦国大名のように周りに身内のものを置く、といったことがほぼできませんでした。

それもあり、豊臣秀吉は天下統一後も独裁状態を長く続けることになったのです。

これは中央政府の組織の整備が十分行われなくなることを意味していました。

必要な政務の分担が行われたのは、つまり腹心の家臣を五奉行とし、さらに有力大名を5大老としたのは結局天下統一後のずっと後、豊臣秀吉の晩年の事だったのです。

このことは豊臣秀吉の天下統一前、天下統一後通しての政権の大きな弱点となっていたのです。

兵農分離とは

豊臣政権に大きな弱点があったとはいえ、天下統一後にも豊臣秀吉は大きな政策を成し遂げています。

それが兵農分離政策です。

これは武士と農民の身分を厳しく区別する政策でした。

刀狩りなど、いくつかの段階を経て兵農分離政策は完成に近づきますが、その仕上げとなったのは人掃令。

1591年に出された人掃令で武家奉公人が町人や百姓になること、逆に百姓が商人や職人になることを禁止したのです。

更に翌年、関白である秀次が人掃令を徹底し、職業別に戸数、人数を確定したことで諸身分が確定することになります。

そのため、人掃令は身分統制令ともいわれます。

そしてその時点で豊臣秀吉の天下統一後の大きな政策、兵農分離政策は完成したのです。

更に豊臣秀吉はすべての大名の石高を正式に決め、その石高に見合った軍役を奉仕する体制も作り上げます。

どうしても天下統一前、権力の頂点の座に駆け上がる過程に注目されがちな豊臣秀吉。

しかし、天下統一後にも豊臣秀吉は自らの権力体制を万全にするための基盤を整えることに成功していました。

豊臣秀吉の凄さとは、天下統一前だけではなく、天下統一後の政策や行動にもあったのです。

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