豊臣秀吉が天下統一するまでの流れとは

織田信長の後継者として卑賤の出ながら天下統一を成し遂げ、天下人の座へと駆け上がっていった豊臣秀吉。

そんな豊臣秀吉の天下統一までの大まかな流れを、当時次々に得た関白や太政大臣の位に注目しながら見ていきましょう。

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ざっとみる天下統一への道

豊臣秀吉は織田信長亡き後、織田信長の後継者として一気に天下統一を成し遂げ、天下人となります。

まずは織田信長の信頼を得て、織田信長亡き後は信長の後継者争いに打ち勝ち葬儀を執り行い、同じく織田信長の家臣であった柴田勝家を滅ぼし、九州で薩摩の島津氏と豊後の大友氏の戦いに介入し、自ら出陣し従わなかった島津氏を屈服させます。

更に関東で北条氏直達の一族を全滅させ、関東を支配下に置くことに成功しているのです。

それだけでは豊臣秀吉の快進撃は終わらず、奥羽まで行き、奥州仕置きを経て戦国大名たちの争いに打ち勝ち、天下統一を成し遂げるのです。

どうして関白に?

関白とは天皇から賜る位であり、大きな権力を握ることが出来る存在でした。

豊臣秀吉はそんな関白になるために様々な策を弄しています。

豊臣秀吉が関白の位を手に入れることとなったその始まりは1585年の5月、左大臣近衛信輔と関白二条昭実の間で関白職をめぐって争論になったことでした。

この際、豊臣秀吉にその処理が回されたのですが、豊臣秀吉はどちらに非があってもその家の破滅につながるとして、豊臣秀吉自らが関白になることを近衛信輔に提案するのです。

もちろん近衛信輔は躊躇しますが、豊臣秀吉が信輔の父、前久の猶子となり、いずれ関白を譲るという条件、そしてさらにいくつかの条件を付けたことでついに近衛信輔は同意します。

そうして晴れて7月に豊臣秀吉は関白の位を手に入れる事となったのです。

こうした手段を使って関白の位を手に入れた豊臣秀吉は、目指す天下統一へと大きく歩を進めたのです。

そして太政大臣へ

こうした経緯を経て関白の位を手に入れ、それと同時に大きな権力を手にした豊臣秀吉ですが、関白の位でも豊臣秀吉の目指すものには足りませんでした。

豊臣秀吉はさらに上を目指したのです。

そして、秀吉が近衛前久の女前子を養子とし、後陽成天皇のもとに入内させることで後陽成天皇の女御となりましたが、その直後、秀吉は太政大臣となり、天皇陛下から豊臣姓を賜ります。

そして現代よく知られている豊臣秀吉という名前を持つことになったのです。

こうして卑賤の出ながらも策略を弄して関白の位を手に入れ、さらに太政大臣の位、そして豊臣姓を賜ることに成功した豊臣秀吉は、天下人となるにふさわしい位を手に入れたとして着々と天下統一へと進んでいったのです。

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