豊臣秀吉の名を知らしめた黒俣一夜城とは

豊臣秀吉に関しては様々な逸話や伝説が語られています。

中にはその出身に関する逸話のように意図的に作られたものも。

他にも、信じられないような逸話が数多く残っている人物でもあるのです。

そんな豊臣秀吉に関する逸話の中でもよく知られている話の中に、黒俣一夜城に関するものがあります。

その逸話とはどんなもので、果たして本当の話なのでしょうか。

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出世物語の原点

黒俣一夜城の逸話とは、簡単にまとめると豊臣秀吉が一夜にして天守のある城を建てたという逸話です。

それはまだ豊臣秀吉が織田信長の家臣であり、それほど名も知られていないころの出来事。

織田信長は美濃の斎藤氏と戦っていました。

難攻不落の稲葉城を落とすため、交通の要であり、激戦区だった黒俣の地に城を作れと家臣に命じたのです。

まずは佐久間信盛がチャレンジ、次に柴田勝家がチャレンジしましたが、どちらも失敗に終わります。

そこで、次に自ら立候補したのが豊臣秀吉でした。

豊臣秀吉は蜂須賀小六などの協力を得てたった一夜にして城を建てたといいます。

そして織田信長から褒美に金や銀をもらった、という話です。

この話の中で建てられた城こそが黒俣一夜城なのです。

豊臣秀吉はこれをきっかけに出世しはじめたといわれており、豊臣秀吉の出世物語の原点といえる話なのです。

しかし、この話は本当の事だったのでしょうか。

本当に一夜?

たった一夜にして建てられたといわれる黒俣一夜城。

それだけ聞くと、本当の事とは信じがたいものですが、本当に一夜で建てられたのでしょうか。

そのことに関しては昔から様々な説が語られてきました。

最初は一夜ではなく、何日かかかった、47日で作られた、などの説が生まれるなど、もっぱら城は実在したと信じられていながら一方で建設期間に対する疑問が語られてきました。

しかし、やがて城は本当にあったのか、という疑問が持たれるようになっていったのです。

創作か、現実か

黒俣一夜城が実在したかが疑問視されたのは、その話のもとになる資料が疑問視されたからです。

実はこの話が書かれていたのは江戸時代後期に書かれた『絵本太閤記』でした。

これには脚色や創作された話が多く、今でいう時代小説のようなものだともいわれます。

つまり、豊臣秀吉が建てた黒俣一夜城の話も創作ではないかとされたのです。

しかし、ここで新たな資料が登場します。

それが『武功夜話』という資料ですが、これもまた創作された可能性があるとされています。

なにより、比較的詳しくその時代のことが書かれている『信長公記』には黒俣一夜城の話は載っていないのです。

では、豊臣秀吉が建てたという黒俣一夜城の話は完全な創作だったのでしょうか。

実は、そうとも言い切れません。

『信長公記』には、建てられた時期こそ違うものの、同じ場所に「洲俣御要塞」があったと記されているのです。

豊臣秀吉の出世物語の原点ともいえる黒俣一夜城。

その逸話が本当だったのか否か、まだ真実はわかっていないのです。

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