天下人となった豊臣秀吉と伊達政宗は同じ波乱の時代を生きた人物です。
豊臣秀吉は戦国大名たちを従え、全国統一を成し遂げましたが、戦国大名たちの中には、なかなか豊臣秀吉になびかない人物も多くいました。
伊達政宗は豊臣秀吉になかなか従わなかった人物の一人です。
しかし、結果として伊達政宗は豊臣秀吉に従うこととなりました。
伊達政宗が豊臣秀吉に従うことにした経緯とは?
目次
命令無視で力をふるう?
豊臣秀吉が1590年に起こした小田原攻めは、それまで大きな勢力を持っていた北条氏政を滅ぼすこととなり、その勢いのまま豊臣秀吉が東北地方を手に入れるという結果になりました。
豊臣秀吉が東北地方の諸大名を服属させて成し遂げた天下統一ですが、その一番最後の障害となった東北地方の諸大名の中にいた人物こそ、伊達政宗でした。
豊臣秀吉は武力だけに頼らず、戦略を練り、智略などを行うことによって天下統一まで成し遂げることができましたが、一方で伊達政宗はその逆のタイプでした。
奥州の伊達政宗は武力によって東北制覇をもくろんでいたのです。
しかし、武力で東北を制覇するには大きな障害が一つありました。
それが豊臣秀吉が出した豊臣平和令です。
武力をふるうには邪魔となる豊臣平和令を伊達政宗は無視します。
そして周辺との戦いを続け、遂に東北南部を支配下に置くことに成功するのです。
しかし、そこで豊臣秀吉が動きました。
従うべきか、否か
伊達政宗が東北南部を支配下におさめたころ、豊臣秀吉が動きます。
しかし、豊臣秀吉の矛先は伊達政宗ではありませんでした。
豊臣秀吉のターゲットは北条氏政だったのです。
北条氏政を討伐に動いた豊臣秀吉ですが、その理由が豊臣平和令に違反したことでした。
会津を占拠したことを問題視されたのだとされています。
そこで伊達政宗は難しい立場に立たされることになりました。
北条氏と同盟関係にあった伊達政宗ですが、豊臣秀吉の動向、そして伊達政宗自身豊臣秀吉側の浅野長政から参陣の催促をされていたことから、遂に豊臣秀吉側につく事を決めたのです。
そうと決まれば、参陣するために豊臣秀吉のもとに向かわなければなりません。
しかし、そこでもハプニングが起こります。
死を覚悟した伊達政宗
北条側か、豊臣側か。
悩んだ伊達政宗は、豊臣秀吉側につく事を決めます。
しかし、参陣しに向かう最中にハプニングが。
すぐさま豊臣秀吉の元に向かうはずが、家族間のトラブルや、向かうルートのミスによって駆け付けるのに予想以上に時間がかかってしまったのです。
相手は飛ぶ鳥を落とす勢いの豊臣秀吉。
下手をすれば、首がとんでしまうかもしれません。
そこで、伊達政宗は想像もできない方法でこのピンチを切り抜けます。
豊臣秀吉に目通りを許され、会う際に、髪を水引で結び、経帷子という死に装束で会見に挑んだのです。
このことで伊達政宗は自分の覚悟のほどを示したのです。
これによってかろうじて許された、という有名なエピソードですが、実は史料はなく、真実かははっきりしていません。
ただ、こうして武力を持った伊達政宗が豊臣秀吉についたことにより、豊臣秀吉の天下統一はさらに勢いづくことになったのです。