豊臣秀吉が戦った中でも有名な戦いの一つが高松城での戦いです。
そこでは戦いだけではなく、高松城を落とすために豊臣秀吉が力を尽くしている最中に織田信長が亡くなった本能寺の変がもたらされ、その際の豊臣秀吉の対応の素早さ、柔軟さでもよく知られています。
難攻不落の高松城に豊臣秀吉も手をこまねき、その結果、とある戦術を使って高松城を落とすことに成功するのです。
では、高松城はなぜそれほど守りが堅かったのでしょうか。
目次
境目七城とは?
当時、毛利氏と戦っていた豊臣秀吉は、戦いの決戦場として備前国と備中国の境目を流れる足守川流域を選びます。
ここは毛利氏にとって重要な防衛ラインであり、ここを突破できれば毛利氏に大きなダメージを与えることが出来たためです。
しかし、毛利氏にとってここは重要な場所だったため、連携も抜群であり、落としにくい7つもの堅城が配置されていました。
この七つの城が境目七城と呼ばれる城です。
しかし、豊臣秀吉はその城を落とすために時間をかけて準備していました。
得意の調落で城を落とそうとしたのです。
そしていくつかの城主などから寝返りの約束を取り付けるなど、豊臣秀吉の調落は上々の結果となりました。
豊臣秀吉も手をこまねいた高松城
しかし、鍵となる高松城の城主、清水完治は豊臣秀吉の誘いにも靡くことはありませんでした。
そこで豊臣秀吉は戦いを始め、進軍を開始するのです。
他の城はすぐに陥落しますが、高松城だけは陥落せず、孤立しながらも抵抗を続けます。
この高松城は周りに沼地があるなど、敵にとっては攻めにくい地形にある城でもあり、そんな自然の地形も高松城を難攻不落の城とした理由でもありました。
しかし、高松城にとってはその地形こそが弱点となります。
豊臣秀吉は豊かな水に囲まれたその地形を利用した、高松城の水攻めという現代でも有名な城攻めを行うのです。
一説には、豊臣秀吉にこの水攻めの案を思いつき提案したのは軍師であった黒田官兵衛だといわれています。
季節も味方に付いた水攻め
そうして豊臣秀吉はあの有名な高松城の水攻めを行いました。
近くの川の水を利用して高松城を水攻めし、兵糧攻めを行うのです。
それにはまず水をためる堤防づくりが必要となりました。
その堤防づくりは5月8日から行い、たった19日間で2,8キロもの土手を築いたといいます。
さらに豊臣秀吉には季節も味方に付きました。
ちょうど梅雨時期だったので、高松城が水没するのにはそれほど時間がかからなかったのです。
こうして高松城の水攻めは行われ、結果として高松城の城主、清水完治は切腹、そして豊臣秀吉との講和が成立することとなるのです。
高松城の水攻めという、現代でも有名な豊臣秀吉の戦いが行われたのには、そうでもしないと陥落させられなかった高松城の守りの硬さがあったからなのです。