豊臣秀吉と台湾のつながりとは

豊臣秀吉が天下を取っていた時、日本だけではなく海外にも目をむけ、日本に従わせようとしていました。

それは様々な国に朝貢などを求める手紙を豊臣秀吉が送っていたことからわかっています。

豊臣秀吉が朝貢を求める手紙を送ったその一つに台湾がありますが、結局台湾が豊臣秀吉に従うことはありませんでした。

では豊臣秀吉と当時の台湾の様子とは?

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台湾なんてない?

豊臣秀吉が天下を取っていた時代、現代でいう台湾は台湾とは呼ばれず、高山国と呼ばれていました。

これは安土桃山時代の日本で用いられた現在の台湾の別名です。

更に時代が進むと高山国という呼び名から高砂国という呼び名に代わるなど、呼称はどんどん変わっていったのです。

そんな高山国に目を付けたのが豊臣秀吉でした。

豊臣秀吉は日本に朝貢させるため、高山国に書状を書き、使者に持たせて送り出したのです。

書状はだれに渡すべき?

豊臣秀吉から朝貢を求める書状を持たされ、現在、台湾と呼ばれる国へと送り出されたのは長崎の商人である原田喜右衛門の部下であった原田孫七郎という人物でした。

この人物は1593年に豊臣秀吉の書状を持ち、台湾の国王のもとへと派遣されたのです。

しかし、この派遣は結局うまくはいかず、原田孫七郎は帰国することになります。

さらに、その後の原田孫七郎の消息は分かってはいません。

わかっているのは、豊臣秀吉のもくろんだ台湾からの朝貢はうまくはいかなかったことだけなのです。

なぜ失敗した?

豊臣秀吉によって、台湾への使者に選ばれた原田孫七郎。

キリスト教の信者であり、洗礼名はガスパル原田という人物です。

ルソンにわたり、マニラにも住んでいたなど、当時の海外情勢に詳しく、使者としては申し分ない人物だったはず。

しかし、失敗したのには当時の台湾の状態に理由の一端があるかもしれません。

実は、豊臣秀吉が原田孫七郎に書状を持たせ、使者として派遣したころにはまだ台湾全体を統一した国家は存在しなかったのです。

台湾全体を統一する国家がいなければ、せっかく豊臣秀吉が書状を書いたとしても渡す相手がいないことと一緒です。

はっきりした原因はわかってはいませんが、豊臣秀吉が台湾に日本への朝貢を求めた結果は、このような台湾側の状況などにより失敗に終わったのです。

豊臣秀吉は海外の様々な国に対して朝貢を求めた書状などを送っていましたが、そのうちの一通は台湾に向けられたものでした。

しかし、台湾はその当時全島を統一した国家が存在していなかったことを豊臣秀吉は知っていたのか、また日本には伝わっていなかったのか、それは定かではありませんが、豊臣秀吉が台湾の国王に、と送った手紙は誰に渡せば正解だったのかわからないという結果に終わってしまったのです。

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