豊臣秀吉と黒田官兵衛との関係

戦国時代の軍師として現代でも名高い黒田官兵衛。

その黒田官兵衛が主君として仕えていたのがのちに天下人となる豊臣秀吉でした。

黒田官兵衛は軍師として豊臣秀吉に様々な策を提言し、天下人へと導きますが、豊臣秀吉との関係は決して順風満帆というわけではなかったようです。

一見信頼しあっている家臣と主君のように見える豊臣秀吉と黒田官兵衛との関係は実際どんなものだったのでしょうか。

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秀吉と出会ったのはいつ?

豊臣秀吉と黒田官兵衛の関係を探るには、その出会いのころから見ていくとわかりやすくなります。

もともと黒田官兵衛は最初から豊臣秀吉に仕えていたわけではありませんでした。

播磨に生まれた黒田官兵衛が仕えていたのは豪商である小寺氏。

そこで勢いのあった織田信長に臣従することを主君に勧めたのですが、その時仲介役となったのが豊臣秀吉だったのです。

豊臣秀吉と黒田官兵衛との関係はここから始まっていったのです。

あれもこれも官兵衛の策だった!

豊臣秀吉とのそうした出会いを経て、黒田官兵衛が豊臣秀吉の家臣となったあと、豊臣秀吉は多くの戦いでその頭角を現します。

その勝利の理由には勝利のための様々な策がありました。

豊臣秀吉が行った三木城や鳥取城での兵糧攻め、そして豊臣秀吉の見事な勝利として名高い高松城の水攻めなどが豊臣秀吉を天下人へと導いた戦いとしてよく知られています。

しかし、実はこれらの策は豊臣秀吉が考えたものではありませんでした。

すべては豊臣秀吉と、その豊臣秀吉に仕える軍師という関係であった黒田官兵衛の考えた策だったのです。

黒田官兵衛は政治的な策を考える軍師としてではなく、こういった軍事関係での作戦を考えることが得意であり、その黒田官兵衛の主君という関係だった豊臣秀吉はその策を利用して天下人へと近づいていくことが出来たのです。

秀吉との関係は?

豊臣秀吉と軍師という関係だった黒田官兵衛。

いい関係を築いているように見える二人ですが、実はそうとも言い切ることが出来ない関係でもありました。

黒田官兵衛が家督を長男の長政に譲ったのは44歳のころでしたが、これは「次に天下を獲るのは官兵衛だ」という言葉を聞いたためだという説があります。

家督を譲ったのは豊臣秀吉の猜疑心をかわすためという理由だったというのです。

さらに、朝鮮に渡っていたものの無断で帰国し、豊臣秀吉に謁見を許されないという事態も起こっています。

その際、います。志田光成らの弾劾で切腹させられそうになるものの、赦免され、剃髪して円清という名を得ています。

豊臣秀吉とは天下を獲るまでは主君と軍師という関係であり、うまくいっていたようですが、豊臣秀吉が天下を獲ったあと、その関係を見てみると、順風満帆ないい関係とは言い切れない関係となっていたのです。

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