豊臣秀吉は大きな勢力を持ち、同時に大きな武力を持っていた仏教とは敵対していましたが、海の向こうの国から入ってきたキリストの教えについては保護の態度まで取っていました。
しかし、その態度はやがて一変し、弾圧を行うまでになってしまうのです。
豊臣秀吉がキリストの教えに対してそこまで態度を変えたことにはどんな理由があるのでしょうか。
教えに対して変わる態度
豊臣秀吉は仏教に対しては厳しい態度で対応していましたが、海の向こうからもたらされたキリストの教えに対しては最初そこまで警戒はしていませんでした。
しかし、保護まで行っていたキリストの教えに関しての豊臣秀吉の態度はやがて変わっていきます。
最初はキリストの教えを禁止にし、さらには弾圧までを行うようになったのです。
これほど豊臣秀吉のキリストの教えに対しての対応の仕方の変化には、とある理由がありました。
その最初のきっかけは、キリストの教えを知り、信者となったキリシタン大名が寄付した驚きのものを豊臣秀吉が知ったことから始まります。
寄付された驚きのものとは?
最初はキリストの教えについて鷹揚な態度をとっていた豊臣秀吉ですが、1587年、九州平定に赴いた際にキリシタン大名である大村純忠が驚きの行動をとっていたことを知ってしまいます。
キリシタン大名である大村純忠はとあるものをキリストの教えを広めるイエズス会に寄付していたのです。
イエズス会にキリシタン大名から寄付されたものとは、なんと長崎でした。
そのことを知った豊臣秀吉は驚き、キリストの教えへの対応を変えてしまいます。
まずはキリシタン大名がこれ以上無許可で増えないよう、大名のキリスト教入信を許可制にしたのです。
更に、その直後にはバテレン追放令を出して宣教師を日本から追い出そうとするのです。
当時のキリスト教の布教は貿易と固く結びついていたため、貿易という経済活動を推奨していた豊臣秀吉は結局キリストの教えを徹底的に禁止することに失敗します。
しかし、それだけでは終わらず、やがてキリストの教えに関して弾圧を行うまでになってしまうのです。
秀吉の対応は?
キリシタン大名が長崎を寄付しているという驚きの事実を知ったことをきっかけに、豊臣秀吉はキリスト教への態度を悪化させます。
キリスト教を禁止したのにも関わらず、キリスト教を捨てなかった播磨の国の明石城城主高山石近は領地取り上げになるなど、厳しい対応を行っていくのです。
しかし、キリスト教への大名の入信を許可制にし、キリシタン大名が増えるのをある程度防ごうとした動きの裏で、一般の人々に対してはキリストの教えに関することはその者の心次第という鷹揚な態度をとっているのです。
キリストの教えに対して徐々に対応を厳しくしていく豊臣秀吉。
しかし、その一方で一般の人に対しては信じるかどうかはその人次第とするなど、鷹揚な態度もとっていたのです。