豊臣秀吉の最後の言葉とは

激動の人生を送った豊臣秀吉ですが、その晩年は朝鮮出兵など、愚策とされる行動が多くなっていました。

そして、豊臣秀吉が亡くなった際、その死は秘密にされ、遺体は秘密裏に運び出されて埋葬されたと伝わっています。

天下人としては少し寂しいそんな最期となった豊臣秀吉ですが、その最後の言葉とされるものはどんな内容だったのでしょうか。

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最後の言葉は2種類?

豊臣秀吉は1598年の8月18日に亡くなったとされています。

その死因については様々な説があるものの、はっきりとはいまだにわかっていません。

しかし、1598年の醍醐の花見の後に体調を崩したため、8月に死亡するまでには時間がありました。

病に伏しているその間に豊臣秀吉は遺言状を残しています。

その遺言状が豊臣秀吉がのちの世に残した最後の言葉といえるでしょう。

そして、もう一つ、豊臣秀吉は辞世の句を残しています。

辞世の句もまた、豊臣秀吉が残した最後の言葉の一つとも言えます。

豊臣秀吉の辞世の句は病に伏していた時に書かれたものではありませんが、豊臣秀吉が辞世の句、として残していたものなのです。

遺言書の内容とは

豊臣秀吉は病に倒れて亡くなるまでに、3つの遺言書を書いています。

その遺言書を渡されたのは豊臣秀吉の政治を助ける立場であった五大老でした。

豊臣秀吉の最後の言葉といえる遺言書の内容で有名なものは、わが子、秀頼のことを五大老に託している部分です。

豊臣秀吉は自分が年老いてから生まれた為、まだ幼かった豊臣秀頼のことが心配だったのです。

そのため何回にもわたって豊臣秀頼のことを周りの人々に託していたと伝えられています。

豊臣秀吉の最後の言葉は幼いわが子、豊臣秀頼の先行きを心配する言葉だったのです。

全盛期に最後の言葉を残す?

最後の言葉を遺言状という形で残している豊臣秀吉ですが、もう一つ、辞世の句といった形で最後の言葉を残しています。

しかし、この辞世の句は豊臣秀吉が死の床についていた日々の中で残したものではありません。

当時辞世の句は生前、それも死を予期した時に作られるものではなく、健康な時に作り、残しておくものだったのです。

豊臣秀吉の辞世の句も豊臣秀吉自身が健康な時に残されていたものでした。

それが「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪花の事は 夢のまた夢」という句。

豊臣秀吉はこの句を辞世の句として自身の全盛期に作っておいたのです。

その全盛期というのは、聚楽第が建てられたころのこと。

当時豊臣秀吉は天下を取り、その生涯で全盛期にあったころだったのです。

天下を取った豊臣秀吉はそのころに辞世の句を作り、いずれ来る死の時のために保管していたのです。

3つある遺言書と豊臣秀吉の全盛期に残された辞世の句。

そのどちらも豊臣秀吉の最後の言葉といえるのです。

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