豊臣秀吉の子供時代の逸話とは

天下人となって大きな権力を持ち、貿易などで大きな財力を持っていた豊臣秀吉ですが、もとは卑賤の出であり、貧しい子供時代を送っていました。

戦国時代に大出世を果たした豊臣秀吉の原点、子供時代の逸話にはどんなものがあるのでしょうか。

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秀吉の土台を作った子供時代

豊臣秀吉は織田信長の後を継いで天下人となった、いわずと知れた有名人。

しかし、その子供時代は天下人となった豊臣秀吉からは想像もつかない貧困生活を送っていました。

豊臣秀吉が織田信長と出会い、仕えるまでは謎が多く、不明な部分が多いのですが、父が早くに亡くなり、家庭を支えるお金を稼がなくてはならなかったせいか、豊臣秀吉のお金に関する感覚はこのころに磨かれたと思える逸話を残しています。

では、豊臣秀吉の子供時代はどんなものだったのでしょうか。

父の死後に放浪へ

豊臣秀吉はまだ子供のころに父を亡くしています。

光明寺の小僧となったあと、父の代わりに家庭を支えるお金を稼ぐために豊臣秀吉は各地を放浪することとなりました。

その年齢、なんと約10歳のころ。

そのころから尾張の国内だけではなく、遠江、三河、美濃を放浪していたとされています。

農繁期に生誕地とされる中村に戻っては、日銭を稼ぎにまた放浪に出る、という生活を送っていたのです。

当時、豊臣秀吉は多くの仕事を経験したようですが、基本は父の残したわずかなお金を元手に針の行商をしながら他の仕事を探していました。

そんな生活を送る中、16歳ごろにはこんな逸話を残しています。

ある時、父の遺産である永楽銭一貫文(現在のお金の価値でいうと約10万円)を持ち、清州へ向かう豊臣秀吉。

そこで木綿針を買い、今度は遠江の浜松へと向かったというのです。

豊臣秀吉がこの時父の遺産であるお金を木綿針に変えたのは、現金を持ち歩くより安全だという豊臣秀吉の判断によるものだったのです。

まだ幼い豊臣秀吉がそんな細かいところにまで気が付く鋭さを垣間見せた逸話です。

まだ子供ながらも鋭い経済感覚を持ち、賢さを見せる豊臣秀吉。

針の行商をしながら、豊臣秀吉の経済感覚は磨かれていったのです。

子供のころの恨みを晴らす?

そんな豊臣秀吉は出世してから生誕の地とされる中村の地を訪れたことがありました。

それは1590年の小田原攻めの後の事。

生誕地である中村を無年貢地に、と思ったものの、少年のころに殴ってきた仁王という男のことを思い出し、その男を殺そうと思い立った豊臣秀吉。

村人はその仁王という男を死んだことにして豊臣秀吉からかばったとの話があります。

豊臣秀吉は、子供のころの恨みをずっと抱えていたのでしょうか。

父を早くに無くし、子供のころから放浪の旅に出てお金を稼いでいた豊臣秀吉は、残された少ない逸話から厳しい子供時代を過ごしていたことがわかります。

しかし、その逸話からは同時に当時の生活の中で育まれた鋭い経済感覚を持ち、賢さを磨いてきた豊臣秀吉の姿をも見て取ることが出来るのです。

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