織田信長や豊臣秀吉が勢いに乗り、活躍していた戦国時代のころ、仏教との関係は決していいとは言えないものでした。
織田信長は高野攻めまで行うほど、高野山をはじめとする仏教勢力との関係は劣悪なものだったのです。
しかし、織田信長が亡くなり、豊臣秀吉が時代の勢いに乗るようになって高野山との関係は少し変化がありました。
一体高野山と豊臣秀吉の間に何があったのでしょうか。
高野山とは?
現在でも高野山といえばだれでも知っているような有名な場所であり、仏教と関係の深いところでもあります。
空海が真言密教の根本道場として開いた高野山は現在に至るまでに、現世浄土として信仰の対象になり、戦国時代の大名家などが供養所や菩提所としている場所でもありました。
そのため、現在の高野山には織田信長や明智光秀など、名の知られた武将たちの墓が数多く並んでいることでも有名です。
しかし、戦国時代にはそんな高野山をはじめとする仏教勢力と織田信長や豊臣秀吉との関係はひどく緊迫したものでした。
当時の仏教勢力と豊臣秀吉などの戦国大名達はなぜそれほどまでに関係を悪化させていたのでしょうか。
信長から秀吉までの高野山
戦国時代、高野山を代表とする仏教徒は一大勢力となり、大きな武力までも持っていました。
当時一大勢力となった仏教勢力がそれほど大きな武力を持っていることを問題視し、そして危険視したのが織田信長です。
織田信長が仏教勢力を自分を脅かす危険なものとみなしたため、高野山とは対立関係となり、高野攻めまで行います。
しかし、すんでのところで本能寺の変が起き、織田信長が亡くなったため、高野山側は九死に一生を得ました。
しかし、織田信長の後を継いだ豊臣秀吉も高野山などの仏教勢力を危険視し、寺領の返還を迫ったのです。
再びのピンチに立たされた高野山ですが、ここで助け舟が出されます。
武士出身で当時高野山にいた木食応其が仲介者として豊臣秀吉に服従を誓ったのです。
その結果、高野山は大幅に石高を減らしたものの、なんとか滅ぼされる未来を避けることが出来たのです。
帰依した秀吉
木食応其によって存続できた高野山。
更に豊臣秀吉は、やがて木食応其に帰依するようになったため、一度は対立していた高野山に寺領まで寄付するようになったのです。
そしてその高野山の領地内に清厳寺を建てます。
これは豊臣秀吉の母、なかの菩提を弔うためのお寺でした。
そして高野山、そして清厳寺は豊臣秀吉のにとって奇妙な因縁の寺ともなります。
一時は天下人である豊臣秀吉の後継者として目されたこともあった豊臣秀次が自刃した場所ともなったためです。
一時は敵対した豊臣秀吉と高野山。
しかし、のちに豊臣秀吉は高野山にお寺を建て、そこがのちに豊臣秀次の自刃の場所となるなど、高野山と豊臣秀吉の人生は生涯奇妙な縁で続いていくのです。