豊臣秀吉の取った戦術あれこれ

戦国時代の歴史を振り返るうえで外すことのできない人物の一人、豊臣秀吉。

子供時代は貧しく、卑賤の出でありながらも異例の大出世を遂げ、遂には天下人となった人物です。

戦国時代に数いた戦国大名たちを従え、その頂点となることが出来たのは、豊臣秀吉の巧みな戦術による部分も大きかったようです。

豊臣秀吉を天下人にまで押し上げた理由の一つである戦術とは?

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情報戦で勝つ!

豊臣秀吉は多くの戦いを繰り広げて天下人という地位に立ちましたが、その戦いでは様々な戦術を使って自分たちを勝利へ導いてきました。

豊臣秀吉が利用していた中には直接戦わずに勝つための戦術もありました。

例えば情報戦もその一つ。

相手側に間違った情報を流したり、内通者を作ったりしたこともあったのです。

本能寺の変で織田信長が亡くなった時も、豊臣秀吉は明智光秀のもとに大急ぎで向かいつつ、その途中で「織田信長は無事脱出して生きている」という情報を流しています。

これは織田信長という大きな存在が亡くなったことで、周囲の大名たちにでは明智光秀側につこう、という考えを起こさせないため。

豊臣秀吉はこの噂によって勝利することが出来ました。

豊臣秀吉は情報戦を制したのです。

使えるものは使う?

また、豊臣秀吉は他の大名を支配下に置くために策を練ることもありました。

それは例えば徳川家康を従えた時にみせた「使えるものは使う」という戦術。

なかなか自分に従おうとしない徳川家康を自分のもとに呼び寄せるため、豊臣秀吉は自分の妹を徳川家康のもとに送ります。

しかし、徳川家康はそれでも自分のもとにやってきませんでした。

そこで、豊臣秀吉は自分の実の母を徳川家康のもとに人質として送り込んだのです。

それにより、遂に徳川家康は豊臣秀吉に従うことになりました。

豊臣秀吉は、必要とあれば自分の家族すら使うという戦術を使っていたのです。

また、情報戦や外交面での戦術が目に付く豊臣秀吉ですが、もちろん直接兵をぶつかり合わせる戦での戦術も見事なものでした。

例えば、兵糧攻めや水攻めで相手を追い込むことが豊臣秀吉の得意な戦術の一つ。

高松城での水攻めや鳥取城での兵糧攻めが有名です。

特に鳥取城の戦いは若狭商人に因幡一帯の穀物を買い占めさせるなど、下準備も念入りに行っていたことがうかがえます。

その特徴は?

豊臣秀吉がとっていた戦術の中でも、そのどれもに共通することといえば、いかに自分たち側の兵の損害を少なくするか、ということでしょう。

豊臣秀吉は情報戦をおこなっていたり、また自分の母親や妹を人質として相手に送ったりなど、なるべく直接戦わずに勝てるように工夫していました。

もし直接戦うことになったとしても、下準備の上で兵糧攻めを行ったりなどの事例が目立ちます。

それは、豊臣秀吉が戦う上でいかに自分達側の兵の損害を減らせるかに大きな関心を寄せていたためでした。

そのため、豊臣秀吉が好んで使った戦術には、直接戦わずして勝てるような戦術が多かったのです。

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