戦国時代に活躍し、天下人となって多くの政策を打ち出した豊臣秀吉ですが、豊臣家の天下は豊臣秀吉が存命だった頃しか続きませんでした。
豊臣秀吉が亡くなってから起きた大坂の陣で豊臣秀頼が亡くなり、豊臣家は滅亡してしまったのです。
豊臣家が滅亡した後に権力の頂点に立ったのは徳川家康でした。
徳川家康は江戸時代を作り上げ、大きな権力を握っていましたが、豊臣秀吉の影響はその江戸時代にも色濃く残っていました。
すでに亡くなっていた豊臣秀吉が江戸時代に及ぼした影響とは一体何だったのでしょうか。
続く政策
豊臣秀吉が亡くなり、かわって徳川家康が権力者の頂点として大きな力をふるった江戸時代。
しかし、その江戸時代でも豊臣秀吉の影響は色濃く残っていました。
その一つが政策です。
豊臣秀吉が存命中のころに行った政策は江戸時代になっても引き続き行われていました。
豊臣秀吉が初めて全国規模で行った検地も江戸時代には行われていましたが、注目するべきはそこではありません。
豊臣秀吉は検地などの政策によってその人物の身分をはっきりさせましたが、それからさらに発展し、江戸時代になるとより一層身分をはっきり区別していくようになるのです。
その点で、豊臣秀吉は江戸時代に大きな影響を与えていたのです。
秀吉ブーム到来
更に、江戸時代になると、すでに亡くなっていた豊臣秀吉ブームが庶民の間で流行していきます。
その理由の一つが、『太閤記』ブームです。
江戸時代には川角三郎右衛門が書いた『川角太閤記』など、豊臣秀吉の大出世物語を書いた物語が一大ブームを起こすのです。
江戸時代の初期には儒学者である小瀬甫庵による『太閤記』ブームが沸き起こり、その熱は江戸時代の終わりごろになってもひいてはいませんでした。
『川角太閤記』だけではなく、時期をずらして『絵本太閤記』なども発売されており、豊臣秀吉の出世物語である太閤記ブームは江戸時代中続いていたのです。
徳川家康の対応は?
豊臣秀吉ブームは大きく、豊臣秀吉を祀る豊国神社に至っては秀吉の七回忌に豊国祭りが行われ、大いににぎわったといいます。
実は、豊臣秀吉に関する祭りである豊国大明神臨時祭礼などの主催者は時の権力者、徳川家康でした。
しかし、祭りの様子を見に行った徳川家康はその盛り上がりようをみて、不機嫌になったと伝えられています。
徳川家康は豊臣秀吉が亡くなった後、豊臣秀吉に関することに対して厳しい態度で臨んでいます。
豊臣秀吉の正室の懇願で取りやめたものの、豊臣秀吉の墓を壊そうとしたり、必要以上にあがめることを嫌がったり。
江戸時代を築いていく徳川家康はなんとしても豊臣秀吉の影響から逃れようとしていたのです。
しかし、天下人であった豊臣秀吉の影響は政策や庶民の暮らしにまで及んでおり、それを完全になくすことはできませんでした。
江戸時代は豊臣秀吉の影響が色濃く残っていた時代だったのです。