豊臣秀吉は数いる大名たちをおさえて天下を獲ったものの、その栄光は子孫にまでは続きませんでした。
豊臣秀吉亡き後、徳川家康が大きな権力を握り、豊臣家は大坂の陣で滅亡してしまったのです。
そんな徳川の世で起きた島原の乱。
その首謀者とされたのはキリシタンの天草四郎ですが、実は豊臣秀吉とつながりがあるかもしれないと伝えられています。
豊臣秀吉とキリシタンである天草四郎はどうつながっているのでしょうか。
目次
天草四郎とは
島原の乱の最高首謀者とされるキリシタンの天草四郎は本名を益田四郎、または益田時貞といいます。
実はこの人物については詳しくはよくわかっていません。
その出自はキリシタン大名の小西行長の家臣、益田好次の子とされています。
天草四郎は小西氏の家臣やキリシタンの間で救世主とされていきました。
そして島原の乱で最高首謀者とされ、討ち死にしてしまうのです。
島原の乱とは
では、天草四郎が最高指導者だったという島原の乱とは?
当時、天草地方では不作のため、年貢の支払いが難しかったこと、そしてキリスト教が禁止されたために、土地の人の不満は高まりつつありました。
そうして膨らんだ不満は島原の乱という形で爆発します。
1637年にこうして起きた島原の乱ですが、当時の天草四郎は16歳という10代半ばの少年だったといいます。
まだ少年だった天草四郎は士気を高めるために最高指導者として担ぎ上げられたともされています。
原城に立てこもったものの、遂に敗れ、処刑された天草四郎。
実はそんな天草四郎は豊臣秀吉と関係ある人物だったとも言われています。
豊臣秀吉の孫だった?
キリシタンだった天草四郎と、徐々にキリスト教に厳しく対応していった豊臣秀吉。
対立しそうな二人の関係は、実は祖父と孫だったという説があるのです。
それというのも、豊臣秀頼が亡くなり、豊臣家が滅亡したとされる大坂の陣ですが、実は豊臣秀頼はこっそり逃げ出し、真田幸村とともに薩摩に逃げたという伝説が伝わっていて、その豊臣秀頼の子こそが天草四郎だともいわれているのです。
真田幸村が豊臣秀頼を連れて薩摩に逃げた、というのは『幸村君伝記』に載っており、実際鹿児島には豊臣秀吉の子、豊臣秀頼の墓、そして真田幸村の墓とされるものがいくつもあるのです。
さらに、島原の乱の最高指導者、天草四郎が豊臣秀頼の子供というのは、江戸幕府の資料に記されているのです。
そこには、天草四郎は豊臣秀頼の子供であり、秀綱という名前だと記されています。
真実はいまだにわかってはいませんが、キリスト教に対して厳しく対応した豊臣秀吉と、キリシタンとして多くの人々とかかわり、島原の乱の最高指導者とされた天草四郎。
豊臣秀吉が生きていたら対立してしまいそうなこの二人は実はそんな血縁関係があったかもしれないのです。