弱肉強食の戦国時代を織田信長の後継者として駆け上がり、天下人の座についた豊臣秀吉。
巨大な権力を持ちながら、豊臣家は天下一の座を守り続けることはできませんでした。
豊臣秀吉の後に天下を獲ったのは徳川家康でした。
もとは豊臣秀吉に従っていた徳川家康はなぜ江戸で江戸幕府を開いたのでしょうか。
まさかの国換え
天下人へと上り詰めた豊臣秀吉は大阪で政治を行っていました。
しかし、豊臣秀吉亡き後、徳川家康が幕府を開いたのは江戸。
なぜ江戸を選んだのでしょうか。
それは徳川家康が豊臣秀吉が生きていた時から江戸にある江戸城を拠点にしていたからです。
しかし、徳川家康が江戸の江戸城を拠点にしていたのはそもそも豊臣秀吉による国換えがきっかけだったのです。
のちに江戸幕府を開く土地、江戸を徳川家康が拠点としたのは1590年の事。
きっかけは豊臣秀吉が小田原征伐で関東を制圧したことでした。
豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏の本拠地、小田原城は落城します。
そこで豊臣秀吉は徳川家康に国替えを命じたのです。
こうして思いもよらず関東へ移ることになった徳川家康は江戸の江戸城を拠点とするようになったのです。
新天地は未開拓?
豊臣秀吉の国換え命令によって江戸に移り、江戸城を拠点とするようになった徳川家康。
しかし、当時の豊臣秀吉が拠点としていた大坂から遠く離れた江戸の様子は、未開拓といってもいいところだったと伝えられています、
そのころの江戸の様子は茅葺の家が100あるかないか、など具体的な様子を伝えている石川正西聞見集や、岩淵夜話によると、とてもさびれていたところだったようです。
当時の中心だった豊臣秀吉がいる大坂から遠く離れたそんな江戸で、徳川家康は活動し始めたのです。
江戸は本当にさびれていた?
豊臣秀吉の国換え命令によって思いもよらず、江戸へと移ることになった徳川家康。
当時の江戸は非常にさびれたところだったと伝わっていますが、本当にそれほどさびれていたところだったのでしょうか。
実は、そうとも言えなかったかもしれない、といわれています。
伝えられているほどはさびれたところではなかったというのです。
それというのも、当時の江戸の様子を書き残している石川正西聞見集の著者は松井(松平)家の家老である石川正西であり、石川正西聞見集が書かれたのは1660年と、徳川家康が江戸に移ってきたころよりももっと後だったのです。
そのこともあり、この石川正西聞見集に書かれている江戸の様子は真実とは言い切れないのです。
資料で伝えられているよりはさびれていなかったともされる当時の江戸ですが、徳川家康が江戸の江戸城を拠点とし、豊臣秀吉亡き後に江戸幕府を開いたことで一気に発展していきます。
のちに江戸幕府を開く徳川家康にとって、江戸は未開拓の土地ではなく、可能性のたくさん詰まった土地だったといえるのです。