豊臣秀吉が養子にした意外な人物とは

戦国時代、ついに天下をとった豊臣秀吉。

天下を取り、すべては思いのままで人生を謳歌しているかと思いつつ、豊臣秀吉にはずっと気がかりなことが一つありました。

それが豊臣秀吉の後を継ぐ子供がいないこと。

豊臣秀吉は子供に恵まれなかったのです。

のちに子供が誕生するものの、それまで子供に恵まれなかった豊臣秀吉は跡継ぎを育てるためという理由もあり、その生涯で多くの養子を迎えます。

そしてその養子の中にはとても意外な身元の人物もいます。

では、そんな豊臣秀吉の養子になった人物の身元とはどんなものだったのでしょう。

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実子に恵まれなかった秀吉

天下を取り大きな権力を手に入れた豊臣秀吉ですが、そんな彼にもなかなか思い通りにならなかったことがありました。

それが跡継ぎ問題です。

豊臣秀吉は女好きと伝えられているうえ、側室もいたのですが、なかなか子供に恵まれなかったのです。

のちにねねとの間に子供が誕生しますが、それもずいぶん年を取ってからのことでした。

そのため、豊臣秀吉は自分に実の子供が生まれなかった場合のことも考え、養子を何人も迎えています。

男子、女子あわせて、その数はなんと10人を超えるほど。

そのうえその養子にはとても意外なところから迎えた養子もいました。

信長の子を養子に?

豊臣秀吉によって養子に迎えられた人物に秀勝という人物がいます。

ややこしいことに何人か同じ名前の人物がいるため、幼名の於次、於次丸と呼ばれることで呼び分けされることもある人物です。

11歳で豊臣秀吉に養子に迎えられ、18歳で死亡した秀勝ですが、実はとんでもないところから迎えた養子でした。

実は秀勝はあの織田信長の四男であり、織田信長がまだ存命の時に迎え入れた子供だったのです。

跡継ぎは姉の子?

更に豊臣秀吉は他にも多くの子供を迎えていますが、実姉ともの子供も養子に迎えています。

それが豊臣秀吉にとって甥にあたる秀次です。

秀次はともにとって長男ですが、実は次男の豊臣秀勝ものちに豊臣秀吉の養子になっています。

豊臣秀吉には実子がいなかったので跡継ぎ候補として迎え入れた秀次は政治にも利用されました。

織田信長が北近江の浅井氏を攻める際には宮部継潤に養子として送り込まれたり、信長が四国攻めを始めたときには豊臣秀吉の四国に対する影響力を強めるために今の徳島県、阿波国の三次康長へ養子として送り込まれたり。

豊臣秀吉の養子となったために波乱万丈な人生を送ることとなったのです。

長い間実の子供には恵まれなかったため、多くの養子をとった豊臣秀吉ですが、その養子のなかには思いもよらない身元の子供がいたり、豊臣秀吉の養子となったために激動の人生を送ることになった人物が目立ちます。

長い間実の子供に恵まれなかった豊臣秀吉ですが、養子は多く、両者の間は複雑なものだったのです。

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