豊臣秀吉と室町幕府の思わぬつながり

戦国時代を生きた織田信長によって滅ぼされた室町幕府。

織田信長の後に天下統一を成し遂げ、天下人となった豊臣秀吉。

一見何の関係もなさそうな室町幕府と豊臣秀吉ですが、実は密かなつながりがありました。

鍵を握っているのは室町幕府の征夷大将軍、足利義昭です。

では、豊臣秀吉と室町幕府、そして足利義昭のつながりとは一体何なのでしょうか。

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織田信長と室町幕府

室町幕府が滅亡したのは1573年のこと。

室町幕府で征夷大将軍であった足利義昭が将軍権力の回復を目指し当時勢いのあった織田信長と敵対したため、織田信長によって京都から追い出され、室町幕府は滅亡しました。

織田信長が室町幕府を滅亡させたということは教科書にも載っています。

しかし、その一方で室町幕府は完全には滅亡していなかったという見方をすることもあります。

その理由は、室町幕府の征夷大将軍、足利義昭にありました。

何をもって幕府とする?

室町幕府などの武家政権は征夷大将軍が中心となっていました。

織田信長は京都から足利義昭を追い出し、室町幕府を滅亡させましたが、その時追い出された足利義昭からは征夷大将軍という将軍職を剥奪してはいなかったのです。

そのため、一部では室町幕府は征夷大将軍の足利義昭がいる限り続いているという見方もあります。

では、足利義昭は亡くなるまで征夷大将軍だったのかというと、それは違います。

実は1588年、足利義昭は征夷大将軍の将軍職を辞任しているのです、

そして、そのきっかけを作った人物こそ豊臣秀吉でした。

ここで豊臣秀吉と室町幕府の征夷大将軍である足利義昭とのつながりがあったのです。

足利義昭が征夷大将軍を辞任するまで

では、織田信長によって京都から追い出された足利義昭が1588年に将軍職を辞任するまでに豊臣秀吉はどのようにかかわってくるのでしょうか。

室町幕府は滅亡してしまったものの、征夷大将軍の座は剥奪されていなかった足利義昭ですが、1587年、備後で九州征伐に行く途中の豊臣秀吉が足利義昭と対面します。

そこで豊臣秀吉は足利義昭に対して将軍職の辞任を求め、代わりに京都へ帰還できるようにするなどの対価を用意していました。

そうしてその求めを受け入れた室町幕府最後の足利義昭は1588年、改めて将軍職を辞任し、京都に帰還するのです。

そしてそののち、出家することとなります。

織田信長によって征夷大将軍の足利義昭が京都から追い出されたことで室町幕府滅亡となりますが、その時にはまだ征夷大将軍の職は辞任していなかったため、室町幕府の時代は完全には終わっていなかったともされるこのころ。

そのため、豊臣秀吉が辞任を求め、それを足利義昭が受け入れ、将軍職を辞任したことで、室町幕府の時代は完全に終わったともされるのです。

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