豊臣秀吉といえば、いったいどんなことをしたのかをほとんどの人が知っているくらいの有名人であり、現代でも人気がある歴史上の人物の一人です。
学生時代に豊臣秀吉については学んだよ、という方がほとんどのはず。
しかし、教科書の中の知識だけで豊臣秀吉を知った気になるのは少し勿体のないことです。
戦国時代を生き、天下人となった豊臣秀吉はその魅力を表す様々なエピソードを持っています。
それらのエピソードを知れば、それまで知ることのなかった教科書には載っていない豊臣秀吉の一面を知ることができ、その魅力と人気の理由を知ることが出来るのです。
実は筆まめ?
天下人となった豊臣秀吉は、人たらしとして知られています。
そんな風に言われるようになった理由は豊臣秀吉の、人に対する細かな気配りにありました。
例えば、豊臣秀吉は時々知り合いに手紙を書いており、その手紙が現代まで残っています。
その手紙の一つ、側室である松の丸殿に送った手紙も残されています。
これは松の丸殿が腹の具合を悪くしたときに送られた手紙でした。
豊臣秀吉は松の丸殿にあてた手紙の中で、薬を飲むように、もしよくならなければそちらに出向くとまで書き送っているのです。
また、池田恒興の母は養徳院という女性ですが、ある時、長男の元助、そして娘婿の森長可と池田恒興が討ち死にしてしまいます。
その際も豊臣秀吉は養徳院に向けて見舞い状を書き送っているのです。
それも、池田恒興が戦死して2日後という早さで送られた手紙でした。
このように、天下人となった豊臣秀吉が人気だった理由は、様々な人々に細やかに気を配っていたからだったのです。
ほしい人材は丁重に
豊臣秀吉は様々な人に手紙を送りましたが、ぜひ手に入れたい人材がいたときも手紙を出していました。
例えば、中国計略の際、黒田官兵衛を囲い込もうとした豊臣秀吉。
その時、黒田官兵衛に向けて兄弟として付き合いたいという内容の手紙を書き送っているのです。
そんな手紙を受け取ったなら、だれでも悪い気はしません。
また、軍師として竹中半兵衛重治を迎えようとしたときも、断られるのを見越してあえて三顧の礼で迎えた、という逸話があります。
自分が目上であっても欲しい人材を手に入れたいときには礼を尽くし、どうすれば自分のもとに来てくれるのかを考え、実行しているのです。
人たらしでありながら、そんな策略家でもあった豊臣秀吉。
人気があった豊臣秀吉の魅力の理由はそんなところにも隠れているのです。
秀吉の魅力がわかる大茶湯
また、豊臣秀吉の魅力はそれまでにないことをも実行したことにもあります。
その一つが北野大茶湯です。
当時、茶が人気となっていました。
そんななか、豊臣秀吉は大きな茶会を催したのですが、その参加者には身分を問うことはしなかったのです。
町民でも武将でも、茶の心得のあるものならばだれでも参加できるようにしたという今までにない茶会でした。
1587年10月1日に行われたこの茶会には約千人もの人が集まったといわれています。
身分を問わずに参加できるようにするなど、庶民たちにとってはめったにない魅力なものでした。
豊臣秀吉が今でも人気の理由は、そんな魅力的な人たらしっぷりにあったのです。