豊臣秀吉と北条氏政の決着がもたらした時代の変化

全国統一を成し遂げ、数ある大名たちをおさえて遂に天下を取った豊臣秀吉。

四国や九州など、天下を取るためには各地の大名たちと駆け引きを繰り広げ、多くの戦いを勝ち残らなければなりませんでした。

天下を取るためには避けて通ることが出来なかった戦いの中で、見逃せない戦いの一つ、北条氏政たちと戦った戦いを小田原攻め、または小田原征伐といいます。

その北条氏政たちとの戦いは豊臣秀吉にとって全国統一までに通らなければならない障害があと少しで終わりだということを表しています。

では、その北条氏政たちとの戦いは時代にどんな変化をもたらしていったのでしょうか。

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小田原攻めとは?

小田原征伐ともいわれる小田原攻めは、1590年に起こった北条氏政たちとの戦いです。

北条氏政たちの領地は関東にあり、まだ豊臣秀吉の手が届いていないところでした。

関東における北条氏政たちの権力は絶大なもの。

一方、豊臣秀吉は四国と九州に攻撃を集中させていたため、北条氏政たちは関東での権力を守り抜けていたとも言えます。

しかし、その状況は豊臣秀吉が九州などの大名を己に従わせることに成功したころから変わっていきます。

豊臣秀吉は関東・奥両国惣無事令を発令、遂に関東に手を伸ばしていったのです。

北条氏政たちは小田原城を修理するなど、戦の準備をしましたが、約25万人ともいわれる兵力にはかないませんでした。

ボロボロになってしまった北条側からは北条氏直が切腹を申し出ますが、代わりに父の北条氏政、そして氏政の弟、北条氏照を切腹させることで、豊臣秀吉の小田原攻めは幕を閉じ、戦国大名後北条氏は滅亡したのです。

目指すは、全国統一!

関東で長い間大きな権力を持ち続けていた北条氏を倒した豊臣秀吉は、さっそく次の段階へ進みます。

北条氏を倒したことで、関東、そして全国統一への足がかりが出来たのです。

それまで難攻不落だった小田原城は豊臣秀吉の手に渡り、そこから更に奥州平定を進めていきます。

そして奥州の仕置きが完了したことで、豊臣秀吉による天下統一は成し遂げられたのです。

小田原攻めの後の厳しい処遇

豊臣秀吉が奥州の仕置きの前に成し遂げた北条氏政との戦いの決着ですが、その小田原攻めについては厳しい処遇が目立ちました。

遅れて参陣してきたものはまだいいものの、参陣しなかったものに対しては即時領地などを没収、抵抗するものはつぶすなど、容赦のない処遇を行っていたのです。

そして奥州の仕置きを行って天下統一を成し遂げた豊臣秀吉。

関東の北条氏政との戦い、小田原攻めは豊臣秀吉が天下を統一するための最後の難関であり、そこから豊臣秀吉の天下は始まっていったのです。

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