戦国時代を代表する戦国大名、織田信長は仏教を力で押さえつけ、それらと大きな戦いを繰り広げたこと、そして天下人となった豊臣秀吉はキリスト教を禁止したことは有名な事実です。
では、豊臣秀吉と仏教の関係はどうだったのでしょうか?
仏教への対応
仏教に対して厳しく対応していた織田信長の次に力を表し、天下人にまでなった豊臣秀吉はキリスト教を取り締まりました。
では、仏教に関してはどうかというと、実はそちらの方も決して見逃していたというわけではなさそうです。
キリスト教に対する厳しい態度はよく知られていますが、仏教に関しても高野山を降伏させたり、僧兵で有名な根来寺を焼き討ちにしたりなど、武力で統制を図る厳しい態度をとっていました。
しかし、豊臣秀吉は仏教を武力で統制しようとするその一方では本願寺を再建し、方広寺大仏を新しく造るなど、けっして厳しく対応するだけではない態度をとっていたのです。
刀で大仏づくり?
豊臣秀吉は一向一揆などの農民の反乱を警戒し、農民から武器を取り上げ、その身分をはっきりさせるという目的で刀狩りを行いました。
実際、当時の農民の一揆は時に一国を支配するほど強大になっていたのです。
そうして農民たちから回収した刀などを豊臣秀吉は意外な目的に使います。
方広寺大仏を造るための材料にしたのです。
その目的は農民にも知らされたうえ、刀狩りは行われています。
当時の豊臣秀吉は仏教の力を正しく把握し、取り締まりながら自らも利用していたのです。
踏み絵代わりの招待?
仏教を時に利用しながら政治を行ってきた豊臣秀吉。
方広寺大仏の造立は焼失した東大寺大仏に代わる大仏の造立を思い立ったためですが、豊臣秀吉の偉大さをアピールするための記念事業ともいわれています。
そうして方広寺の大仏が出来上がった時に、千僧供養と称し、仏教各宗派から千人の僧を出仕させようと招待していました。
しかし、実はここにも用心深い豊臣秀吉の考えが潜んでいたのです。
実は、仏教各宗派にそれぞれ僧を出仕させたのは豊臣秀吉に従うかどうか、いわば踏み絵代わりだったともいわれているのです。
結局、この千僧供養では多くの宗派が豊臣秀吉に従い、その招待に応じて方広寺大仏の千僧供養を行っています。
キリスト教を取り締まったことで知られた豊臣秀吉ですが、仏教に対しても決してやさしい態度をとってはいませんでした。
しかし、一方で新しく大仏を造立したり、本願寺を再建したりするなど、厳しいだけでもありません。
豊臣秀吉は自分の政治にも都合よく仏教を利用しながらも、一方では常に仏教が力を持ちすぎ、自分に反乱を起こすことがないように目を光らせていたのです。