豊臣秀吉の晩年の行いとは

天下を取った人物として名高い豊臣秀吉に関しては、残された資料や言い伝えから多くの研究がなされてきました。

その過程で、豊臣秀吉の人物像も様々な推測がなされてきましたが、豊臣秀吉を言い表す言葉でよく知られているのが「人たらし」ということ。

事実、現在まで残っている豊臣秀吉の直筆の手紙などを見ても、人に対する細やかな気遣いを見て取ることが出来ます。

しかし、晩年になってからの豊臣秀吉には人たらし、という言葉が当てはまらなくなっていきます。

一体豊臣秀吉はその晩年にどんなことをしたのでしょうか。

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豊臣秀吉の最晩年

豊臣秀吉が亡くなったのは1598年のこと。

同じ年の3月15日に行った醍醐の花見以降、少しずつ衰え始め、5月には伏見城で床に伏してしまいます。

それからは周囲の人物に豊臣秀頼のことを繰り返し頼むなど、自分の死を予期した行動が多くなりますが、8月18日、遂に臨終を迎えたのでした。

「つゆとをち つゆときへにし わかみかな なにわの事もゆめの又ゆめ」という豊臣秀吉が呼んだといわれる辞世の歌が残されています。

無謀だった朝鮮出兵

豊臣秀吉の晩年の評判が悪い原因の一つに朝鮮出兵があげられます。

この朝鮮出兵の最中に豊臣秀吉が亡くなったため、豊臣秀吉に代わって五大老が朝鮮から兵を引くよう命令を出したことで朝鮮出兵は終わりを告げたのです。

朝鮮に出兵し、明なども自分の手中に収める、という豊臣秀吉の野望はただ犠牲を払っただけに終わったのです。

残虐すぎた秀次事件

更に晩年には豊臣秀吉の周囲にいた大物の処刑も相次ぎます。

1591年に千利休が切腹を命じられたことはあまりにも有名な出来事。

更に、民衆もその残虐さに驚いたと伝わる秀次事件があります。

これは豊臣秀吉の甥の秀次、そしてその一族が処刑された出来事でした。

最初は秀次を後継者と定め、関白まで譲った豊臣秀吉ですが、その後、自分の子供が生まれてからは様子が変わっていったのです。

わが子可愛さのあまり、一度は後継者と定めた秀次が邪魔になった、と伝えられていますが、そう考えざるをえないほど秀次に対する豊臣秀吉の態度が明らかに変わるのです。

遂には謀反の疑いで高野山に追放し、切腹を言い渡しました。

そしてそれだけでは飽き足らず、京都の三条河原で一族を処刑したのです。

処刑された中には駒姫という、秀次とはまだ顔すら合わせていない側室もいたことからも、豊臣秀吉の処刑の徹底ぶりがうかがえます。

その処刑の様子もひどいもので、民衆は驚き、豊臣秀吉に呆れたとも伝わっています。

このことからもわかるように、豊臣秀吉を表した「人たらし」の要素は晩年の豊臣秀吉にはすでに窺えなくなっていたのです

卑賤の出から天下人にまでのし上がり、大きな権力を手にした豊臣秀吉ですが、その晩年を見ると、まるで人が変わったかのような行いや振る舞いが目立つようになっていたのです。

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