数いる大名たちを押しのけ、遂に天下人となった豊臣秀吉。
その豊臣秀吉は卑賤の出から天下人までのし上がったということもあってその生涯は数々の言い伝えや伝承などに彩られています。
そんな豊臣秀吉ですが、実はその母、なかに関してもいくつかの謎があることを知る人は多くはありません。
なかは1585年の7月には位の中でも高いものであり、将軍の生母などがなった従一位に叙されている女性です。
では、そんな豊臣秀吉の母、なかに関する謎とは、いったい何なのでしょうか。
そして、もう一人の母、義母と豊臣秀吉の関係は?
目次
無理やり結婚、義母激怒
人たらしとして知られる豊臣秀吉ですが、そんな豊臣秀吉でも懐柔できなかった人物が一人いました。
それが豊臣秀吉の妻、おね(寧々)の母である朝日殿。
おねと豊臣秀吉は結婚しようとしたとき、豊臣秀吉が卑賤の出であることから、おねの母、朝日殿はその結婚に反対していました。
しかし、それでも結婚をあきらめようとしなかったおねと豊臣秀吉はおねを浅野家の養女とすることでおねと結婚するという思いもつかない手段で結婚をしています。
当然、結婚を認めていなかった朝日姫は激怒。
豊臣秀吉を生涯許さなかったと伝わっています。
人たらしと伝わる豊臣秀吉も義母には許してもらえなかったようです。
生みの親は高貴な人物?
一方、豊臣秀吉の母、なかとおねの仲は実の母娘のように良好だったと伝えられています。
そんななかには、いくつかの謎が伝えられています。
一つが、なかは実は高貴な人物だったという説。
『東国太平記』には、なかを持萩中納言の娘としており、18歳で結婚したと伝えられているのです。
実はこの説、『白華随筆』にも同じ説が載っています。
つまり、卑賤の出であるはずの豊臣秀吉の母、なかは実は公卿の血筋を引いているというのです。
秀吉の父は僧?
豊臣秀吉の母、なかは弥右衛門と結婚し、豊臣秀吉を生んだと伝わっていますが、違う説では父親は僧だったと伝えられています。
その説が書かれているのは『尾州志略』という史料です。
この史料では、豊臣秀吉は尾張国蓮華寺の僧の私生児とされているのです。
その説では豊臣秀吉の父親である僧はある女と交わり、子をなしたものの、その女は筑阿弥という男に嫁いだ、とされているのです。
なかと弥右衛門の子、という通説を崩すような説ですが、この説のように、豊臣秀吉、そしてその母や父に関する説はいろいろあり、ここで紹介したものはそのうちの一部でしかありません。
時の権力者はさまざまな事柄を都合のいいように書かせたりなどをしているので、様々な説が現在まで残され、伝えられているのです。
しかし、そんな様々な説には現実にはありえないものなどもあり、知るだけでも面白いもの。
時に本人だけでなく、その父や母に関してまでも荒唐無稽な説が語り継がれてきたのです。