豊臣秀吉と米といえば

豊臣秀吉といえば、卑賤の出ながら天下人となった人物として有名です。

そんな激動の人生を送った人物の生涯を彩る逸話は数えきれないほどありますが、その中には米に関係するよく知られた逸話があります。

米と豊臣秀吉の算数が絡んでくるよく知られた逸話とは?

そしてもう一つ、豊臣秀吉と米という言葉で連想する豊臣秀吉の政策とは?

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秀吉の一大政策

豊臣秀吉は多くの政策を実行しましたが、教科書にも必ず書かれるなどして、一番よく知られている政策は太閤検地と刀狩りです。

その二つの中でも、米を図る桝を全国で統一したり、田畑の面積チェックを行った検地を全国規模で行ったのは豊臣秀吉だとして広く知られています。

また、耕地ごとに耕作者をはっきりさせ、検地帳に記入、収穫物の約3分の2を年貢として納めさせるなど、豊臣秀吉の行う政治の中で太閤検地は大きな役割を担っていたのです。

そのように収穫され、年貢米として納められた米ですが、当時百姓は米に稗など混ぜて食べており、白米は贅沢な食べ物でした。

そんな米に関して、もう少しで豊臣秀吉が米を大量にまきあげられそうになった逸話が残されています。

その男、曽呂利新左エ門

その逸話の中に出てくる人物、それが豊臣秀吉と曽呂利新左衛門という人物。

この曽呂利新左衛門は刀の鞘師でおしゃべり上手。

刀の鞘を造らせれば刀がそろりとあうのでその名がついたといわれています。

本名は杉本甚右衛門、または彦衛門ともいわれています。

そんな曽呂利新左衛門は豊臣秀吉のそばにいて仕える御伽衆となっていたともいわれます。

しかし実は、この曽呂利新左衛門は実在したかどうかもわかってない人物なのです。

そんな人物が豊臣秀吉から褒美として何が欲しいと問われ、一風変わった方法で米をもらおうとした話がこの米の倍増しという話です。

米の倍増しとは?

この米の倍増しという話はあるとき、豊臣秀吉が曽呂利新左衛門に対し褒美をやるから好きなものを言ってみろといったことから始まります。

これに対し、曽呂利新左衛門が欲しいといったのはたった一粒の米でした。

ただ、これだけでは終わりません。

曽呂利新左衛門は今日は一粒、明日は2粒、明後日はその倍。明々後日はさらにその倍。

それを31日間続けた数の米をください、と豊臣秀吉に伝えました。

豊臣秀吉はそれだけでいいのか、と簡単に了承しましたが、それが大きな間違いでした。

よくよく考えると、今日たった一粒の米でも、倍に増えていくと、31日後にはとんでもない量の米になってしまうのです。

実はこの米の倍増しという話には、51日間分だったりと、様々な似たようなタイプの話が伝わっていますが、天下人である豊臣秀吉も太閤検地で納めさせた貴重な米が一粒から倍の勢いで数を増し、手元から消えようとしていることに気付いた時には真っ青になってほかの褒美に代えてもらったといわれています。

実在したかわからない曽呂利新左衛門と、豊臣秀吉が登場し、米を使って算数の問題を考えさせられる少し変わった逸話が米の倍増しなのです。

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