豊臣秀吉は大阪城や伏見城など、様々な城を拠点とした生涯を送りました。
その豊臣秀吉と関わりがある城、そして現在までその姿を留めている城の中に姫路城があります。
そんな姫路城と豊臣秀吉の関わりとは一体どんなものだったのでしょうか。
目次
姫路城ってどんな城?
姫路城とは別名白鷺城ともいわれ、現在、国宝で世界遺産でもあります。
その白い壁の美しさは特に語られることが多く、姫路城をより有名にした特徴の一つ。
耐火性を強めるために外壁から軒裏まで白亜で塗り込まれたため、この特徴的な美しさとなったのです。
元は標高45メートルの姫山を利用した平山城であり、連立式の天守閣、そして天守と三つの小天守で成り立っています。
平山城とは山城から小高い丘の上に築く城のこと。
そうして建てられた姫路城は軍事施設として、また城主の居館としての機能を備えた城なのです。
秀吉のものになるまで
そんな特徴を持つ姫路城ですが、最初から豊臣秀吉のものだったわけではありませんでした。
最初の城主は赤松貞範という人物。
この人物が姫山とされるこの地に築城したのですが、のちに赤松氏は他に移り、代わりに小寺氏が居城にしたのです。
ただ、この姫路城築城については様々な説があり、どれが本当のことなのかはまだはっきりとは分かっていません。
しかし、そこから更に姫路城の城主は変わっていきます。
小寺氏の次に、その重臣である黒田重隆が城主になったのです。
そして現れる重要人物が黒田官兵衛。
黒田重隆は黒田官兵衛の祖父に当たります。
黒田官兵衛といえば、豊臣秀吉が天下を取ることが出来たのはこの人物のおかげともいわれる人物です。
そして黒田官兵衛は豊臣秀吉に対し、当時の自分が持っていた姫路城を差し出したのです。
こうした経緯を経て、姫路城は豊臣秀吉のものとなっていたのです。
秀吉による大改修
では、黒田官兵衛はどうして姫路城を豊臣秀吉へと献上したのでしょうか。
それは、当時の時代背景に大きな理由がありました。
当時、織田信長は天下を目指す最中であり、豊臣秀吉はそんな織田信長のために様々な働きを見せていました。
織田信長が豊臣秀吉に命じた西国諸国、そして因幡の平定もその一つ。
それには拠点となる場所が必要だと、黒田官兵衛は豊臣秀吉に自らの居城であった姫路城を献上したと伝えられているのです。
そして豊臣秀吉は西国攻めの拠点としてふさわしいように、三重の天守を築くなど大改修を行っています。
しかし、そうして使われるようになった姫路城もそれほど長く居城とされたわけではありませんでした。
織田信長が亡くなった本能寺の変が起き、すぐに明智光秀を討伐した豊臣秀吉は大阪城を新たな拠点とし、姫路城はまた違う人物のものとなったのです。
様々な人物に居城として使われ、利用されてきた姫路城。
豊臣秀吉もその一人。
織田信長に命じられた西国攻めの拠点とするべく、大改修を行うなど、姫路城と豊臣秀吉には深い関わりがあったのです。