方広寺といえば、京都にある豊臣秀吉が建てたお寺として有名です。
のちに豊臣家側と、権力を強めていった徳川家康が戦うきっかけとなったとされる鐘もこの方広寺にあったりと、方広寺と豊臣秀吉がらみの逸話はいくつも残されています。
そんな数々の逸話を持つ方広寺は、豊臣秀吉が建てたころにはいったいどんな出来事の舞台になったのでしょうか。
そして、豊臣秀吉と方広寺の逸話にはどんなものがあるのでしょうか。
完成まで約10年?
そもそも豊臣秀吉が方広寺を建てようと思ったきっかけは、大仏でした。
松永久秀の焼き討ちで焼損してしまった東大寺の大仏に代わる大仏を造ろうと思ったのが方広寺を作ることになったそもそものきっかけだったのです。
また、豊臣秀吉が自分の偉大さを広くアピールするための事業ともされています。
そんな思惑がありつつ、1586年に作られ始めた方広寺。
しかし、完成までには長い時間がかかってしまいました。
なんと、完成したのは1595年の事。
作り始めてから約10年かかるという一大事業となったのです。
そうしてできた方広寺には焼損した東大寺の大仏よりも大きな大仏もまた完成していました。
各宗派の僧そろい踏み!
完成まで約10年かかった末、大きな大仏も完成し、多くの行事が行われるようになった方広寺。
1595年には豊臣秀吉は自身の祖父母の供養のためにそこで千僧供養会というものを行っています。
この供養会はその名前の通り、多くの僧たちを集めて行ったものですが、特定の宗派にこだわらず、様々な宗派の僧たちが集められたことが大きな特徴です。
更に、この供養会は当時毎月行われる大規模なものとなっていました。
実はこれは豊臣秀吉が各宗派の僧たちがちゃんと自分に従うかどうか試したという説も。
真相は謎のままですが、豊臣秀吉だけではなく、豊臣家の滅亡まで、毎月行われるようになったのです。
大仏の逸話には事欠かず?
もともとは東大寺の大仏の代わりに豊臣秀吉が新たな大仏づくりを思い立ったことから作られた方広寺。
そのため、方広寺には大きな大仏が安置されました。
しかし、この大仏と豊臣秀吉にはとある逸話が残されています。
なんとやっと完成したこの大仏、完成の翌年に起きた慶長伏見地震で倒壊してしまったのです。
それを知った豊臣秀吉は自分の身すら守れないのか、と怒ったと伝えられています。
しかし、倒れたものは仕方ありません。
その大仏に代わり、夢に出てきたお告げとして、新しく善光寺如来を本尊に、と安置しました。
しかし、その後豊臣秀吉が病に倒れたことで、これはたたりだ、という噂が立ってしまうのです。
その結果、安置されていた善光寺如来は再び元の場所に戻されることとなりました。
しかし、豊臣秀吉の病は治らず、結局そのままなくなってしまうのです。
豊臣秀吉によって建てられ、のちの世まで豊臣家とともにあった方広寺。
そんな歴史を持つ方広寺には大仏を建てることを思い立った豊臣秀吉との逸話も数多く残っているのです。