豊臣秀吉と知りたい大阪城の歴史

戦国時代の有名人、豊臣秀吉といえば日本の歴史上でもまれなほどの大出世を遂げた人物であり、多くの政策を打ち出していったため、日本の歴史を語るうえでも外すことのできない人物の一人です。

そんな豊臣秀吉のお城といえば、数ある中でも大阪城が一番関係が深く、有名だといえるかもしれません。

大阪城は豊臣秀吉が天下人となった時期を過ごした場所であり、豊臣秀吉の子である豊臣秀頼が大坂の陣で徳川家康に敗れた際、ともに焼け落ちた城でもあります。

まさに豊臣家と運命を共にした城、大阪城。

果たして、その大阪城とはどんな城だったのでしょうか。

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目指した城は?

豊臣秀吉によって1583年に普請がはじまった大阪城。

1587年には完成しますが、完全に出来上がるのはまだ先の事。

いったん完成してからも断続的に工事が行われていたため1587年の時点では完全な状態とは言えなかったのです。

大阪城の普請が開始されたことは『兼見卿記』に書かれており、建っていた場所はもともと石山本願寺の跡でした。

そんな大阪城を建てるにあたって一応の理想とされたのはかつて豊臣秀吉の主君だった織田信長の安土城。

一応のモデルとしたのは、安土城が理想のモデルだったというわけではなく、そのすべてを凌駕した城を作ろうと考えられていたためです。

豊臣秀吉が大阪城に求め、目指したのは安土城を超える城だったのです。

三国無双の城

豊臣秀吉が普請を開始してから一年半して、天守が完成し、すべて完成したのは15年後という大阪城。

完成した大阪城は当時の日本一の巨大な城であり、天下人となった豊臣秀吉の城としてふさわしいものとなっていました。

その姿は、大友宗麟によって「三国無双の城」と讃えられたほどでした。

更に城だけでなく、城下町も含めて最盛期には20万人ほどの人がいたといわれています。

そのため、建築スピードも早く、わずか40日で7千もの数の家が建ったともいわれており、当時の天下人、豊臣秀吉と大阪城の凄さが想像できる一端となっているのです。

そして落城へ

しかし、三国無双の城ともいわれた大阪城は豊臣秀吉亡き後、豊臣家の滅亡とともに歴史から姿を消します。

豊臣秀吉の子、豊臣秀頼が淀殿とともに移り住み、最後には大坂の陣で自害し、大阪城も焼け落ちてしまうのです。

大坂の陣で大阪城が焼け落ちた際、豊臣秀頼と淀殿も自害したため、天下人である豊臣秀吉が一代で力をつけた豊臣家は滅亡してしまいます。

大阪城は豊臣家、特に天下人であった豊臣秀吉の力の大きさを表し、その豊臣家の滅亡とともに日本の歴史から姿を消すことになってしまうのです。

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