豊臣秀吉が眠る墓所

天下人として大きな権力を持ち、栄華を極めた豊臣秀吉ですが、その晩年になるとその後の豊臣家の行く末を指し示すような不穏な空気が垂れ込めます。

実際、豊臣秀吉が亡くなった後もその死は秘密にされ、ひっそりと埋葬されることになりました。

そうして墓所に埋葬された豊臣秀吉ですが、埋葬された後でもその墓所には様々な出来事が起こりました。

一体どんなことが起こったのでしょうか。

スポンサーリンク
hideyoshi-toyotomiレクタングル大

ひっそりした埋葬

豊臣秀吉は晩年伏見城で死の床についていました。

そしてついに死亡してしまうのですが、その死はしばらく秘密にされます。

そのため、遺体を埋葬するのも秘密裏に行われているのです。

まず遺体を棺に納め、伏見城から運び出した後、方広寺の裏の阿弥陀ヶ峰に運ばれて埋葬されたといわれています。

豊臣秀吉は死亡したことは秘密だったため、埋葬の際付き従ったのは前田玄以と数人の従者のみともいわれています。

天下人となった豊臣秀吉の埋葬は天下人とは思えないほどひっそり行われたものだったのです。

墓がつぶされる?

そうして埋葬された豊臣秀吉の墓所は京都市の阿弥陀ヶ峰の山頂にあります。

しかし、その墓所は一度荒れ果てることになりました。

豊臣秀吉の後に大阪の陣で豊臣氏が滅亡し、時の権力者となったのは徳川家康ですが、豊臣秀吉を祀る豊国神社や墓所はすべてつぶすように命令したのです。

しかし、この時は北政所の嘆願によって命令が撤回されました。

ただ、時がたって1619年になると、再び豊国神社や墓所をつぶすように命令が下ったため、廟堂のみを残して墓所はなくなってしまいました。

更に盗賊に荒らされるなどの悲劇にも見舞われるなど、豊臣秀吉の墓所はかつての天下人のものとは思えないほどの状態になっていくのです。

こうして豊臣秀吉の墓所は荒れ果ててしまうことになったのです。

再建されたのはいつ頃?

一度天下人のものとは思えないほどに荒れ果ててしまった豊臣秀吉の墓所ですが、のちの世になって再建されることになります。

荒れ果てるばかりだった墓所に再び注目が集まっていくのです。

それが明治時代でした。

徳川家康の時代には徳川家康自身の命令によってつぶされていた豊臣秀吉の墓所や豊国神社ですが、その江戸時代の次に訪れた明治時代には豊臣秀吉に再び注目が集まり、神社などを再建しようという運動が始まったのです。

そういう経緯を経て再び明治時代に建て直されることになった天下人、豊臣秀吉の墓所。

天下人、豊臣秀吉の墓所や豊臣秀吉を祀る神社は豊臣秀吉が亡くなってから、そして徳川家康の時代になってからつぶされたり、荒れ果てたりしたのですが、時代を超えて明治時代には再び注目が集まり、多くの人々の手によって再建され、現代でも訪れる人が後を絶たない場所となっているのです。

スポンサーリンク
hideyoshi-toyotomiレクタングル大

hideyoshi-toyotomiレクタングル大

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする