豊臣秀吉が晩年になって行った朝鮮出兵は失敗に終わりました。
また、ただ失敗しただけではなく、多くのお金をかけて行っていたのに得るものがなかったため、豊臣家は大きな痛手を受けてしまうのです。
失敗したことでそれほど大きな痛手を被った豊臣秀吉の朝鮮出兵。
では、そもそも豊臣秀吉が朝鮮出兵を行うことにした理由とは、いったい何だったのでしょうか。
目次
広まる唐入りの思惑
豊臣秀吉が行った朝鮮出兵の理由は明を倒すことだったということはよく知られています。
豊臣秀吉が抱いたそんな唐入りの思惑は日本だけではなく、外国にまで広まっていました。
豊臣秀吉はインドの副王に向けて書いた返書に「大明」を治める志があると述べているのです。
更にフィリピン政庁にも服属するように書簡を送り、明だけではなく、海を越えたほかの国々も自らの支配下に置こうとしていたのです。
また、琉球、朝鮮から使節がきた時には、「大明国」を征せんとしていると述べています。
豊臣秀吉の抱いた唐入りの思惑は、日本国内だけではなく、世界へと広まっていったことがわかります。
国内での動き
豊臣秀吉が初めて唐入りを口にしたのは1585年のことだとされています。
そこから更に1586年になると、対馬の宗義調に筑紫への動座の際、高麗へ軍勢を遣わすと告げているのです。
しかし、ここで宗氏が高麗国王の出仕交渉にあたるということでこの出兵は中止となります。
しかし、豊臣秀吉は朝鮮出兵をあきらめることはありませんでした。
一度朝鮮出兵が中止になったこの後にも、出兵の意向を周囲に伝えるなど、明を支配下に置くという豊臣秀吉の考えは揺らぐことはなかったのです。
出兵の理由は?
朝鮮出兵をあきらめなかった豊臣秀吉。
何度も出兵を周囲に伝えるだけではなく、海外にも豊臣秀吉の明へ向かう唐入り構想が伝わっていたことがわかります。
では、どうして豊臣秀吉はこれほど朝鮮出兵を望んでいたのでしょうか。
この理由には諸説あり、はっきりした理由はわかってはいません。
しかし、その諸説ある理由の中で、一つ有力とされている理由があります。
それが、豊臣秀吉はこの朝鮮出兵などが成功したら、配下の者たちに恩賞として与える土地を確保したかった、という説。
当時豊臣秀吉は多くの戦を勝ち進み、天下人となっていましたが、時がたつにつれ恩賞として家臣に与える土地が不足し始めていたため、そのために新たな土地が欲しかった、という理由です。
豊臣秀吉が行った朝鮮出兵は失敗に終わり、豊臣家に大きな打撃を与えましたが、そうまでして朝鮮出兵を行った理由は、海の向こうの土地目当てとされています。
しかし、実際はわかっていないことも多く、豊臣秀吉が本当に海の向こうの土地を目当てに朝鮮出兵をおこなったのか、実は他にも何か隠された理由があったのか、いまだに謎のままなのです。