豊臣秀吉が行った朝鮮に対する政策とは

豊臣秀吉がその晩年、朝鮮に出兵し戦いを繰り広げることとなった朝鮮出兵を行ったことはよく知られています。

豊臣秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのでしょうか。

そして、それに関係する豊臣秀吉の行った政策とは?

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なぜ朝鮮は狙われた?

天下統一を成し遂げた豊臣秀吉はそれだけでは終わらず、朝鮮にも兵を差し向けます。

豊臣秀吉はこの朝鮮出兵で何を得ようとしていたのでしょうか。

当時の海外情勢を見てみると、それまで強大であった明の国力が少しずつ衰え、明の国を含めた国際秩序が変化しつつあったことが知られています。

そんな不安定な時期に動いたのが豊臣秀吉でした。

豊臣秀吉は朝鮮に兵を出す前の1587年、対馬の宗氏を通して朝鮮にメッセージを送っています。

それは豊臣秀吉に対して入貢と明への先導を求めるメッセージでした。

しかし、朝鮮はこれを拒否します。

そしてその後、豊臣秀吉は朝鮮に兵を差し向けたのです。

豊臣秀吉が朝鮮出兵をその晩年に行ったことはよく知られていますが、その目的は最初は朝鮮ではなかったのです

つまり、豊臣秀吉が朝鮮へ兵を差し向けたのはもともと朝鮮が目的地だったわけではなく、最終的には明を支配下に置くためだったのです。

まずは海賊から従える?

当時豊臣秀吉は海外のいくつかの国に入貢を求め、明を支配下に置こうという計画を考えていました。

そんななか、結果的に朝鮮出兵につながっていくその最初の一歩となった政策があります。

その政策が豊臣秀吉の出した海賊停止令です。

当時、海賊は海上で大きな戦力を持ち、その海域を通る船から通行料を取るなどしていました。

豊臣秀吉が出した海賊停止令という政策はこの海賊の持つ戦力に目を付けたものです。

豊臣秀吉はこの政策によって海賊を服属させ、その戦力ごと自分のなかに取り込もうとしたのです。

この政策の成功により、豊臣秀吉は朝鮮と明への出撃体制を整え、のちの朝鮮出兵へとつながる第一歩となったのです。

三国国割構想とは?

さらに豊臣秀吉は三国国割構想というものを考えていました。

1592年、釜山に兵が上陸したことを知った豊臣秀吉は関白である秀次に25ヶ条からなる朱印状を送っています。

そこには、明を征服した後のプランが書かれていました。

それが豊臣秀吉の三国国割構想です。

それは明を征服した後、後陽成天皇を明の皇帝として北京に置き、良仁親王か智仁親王を日本の天皇としよう、という壮大な計画でした。

しかし、知られている通り、結局朝鮮出兵は失敗に終わり、豊臣秀吉が明を征服するために出した政策は失敗に終わります。

逆に、この朝鮮出兵によって豊臣秀吉の経済力は大きく削られ、のちの豊臣家の衰退を招くこととなるのです。

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