織田信長の後を継いで多くの戦国大名を従え、遂に天下人となった豊臣秀吉。
天下人となれたのは、豊臣秀吉の武力に頼らない策略や智略によるものが大きかったことは否定できません。
そんな策略家である豊臣秀吉の行った政策にも、その後の世を大きく変える影響力を持ったものが少なくありませんでした。
では、そんな豊臣秀吉の政策には、分野ごとにどんな有名なものがあったのでしょうか。
天下を取るために使われた政策
豊臣秀吉は武力だけではなく、智略や戦略によって多くの戦国大名を自らに従えさせました。
しかし、一方で討伐すると決めた人物に対しては、策を練って討伐するための理由を作り出すなどの決断をする人物でもあります。
そんな豊臣秀吉によって、戦国大名を従えさせ、時には討伐理由として利用された政策が行われました。
それが、豊臣平和令ともされる惣無事令です。
これは簡単にいうと、戦国大名だけではなく、一般人を含め、乱闘を禁止する法令です。
この惣無事令により、戦国大名たちが豊臣政権の裁定に従うように仕向けたのです。
この政策により、豊臣秀吉は戦国大名を従えていきましたが、逆に従わない戦国大名に対しては、法令違反だとして討伐に向かうなど、豊臣秀吉が天下を取るために作り、使っていた政策でもあったのです。
貨幣をおさえる!
豊臣秀吉は経済の面でも様々な政策を行いました。
その一つが貨幣を作ったことです。
大きな鉱山をいくつか自分の直轄地とした豊臣秀吉は、天正大判金などの紙幣を新たに作り出しています。
これは家臣に褒美を取らすときなどに使われました。
さらに貨幣を豊臣秀吉自身の権力を誇示するためにも使っています。
例えば本願寺の使者が大坂城を訪問した時には、金子が300枚も入った箱を10箱に、500枚入りの箱を8箱、さらに700枚の金子を披露し、使者を驚かせているのです。
敵視されたキリスト教
豊臣秀吉の政策は宗教にも及びました。
豊臣秀吉はキリスト教を禁止しましたが、その理由はキリスト教の力の強さを恐れたからだといわれています。
当時ポルトガルなどの宣教師によって布教されたキリスト教は一気にその信者を増やし、大名であってもキリシタン大名となる人物が出るほどの影響力を見せつけました。
そのため、豊臣秀吉はキリスト教を禁止する方針で政策を作っていったのです。
1587年に出された禁教令がその一つ。
さらに、キリスト教徒に対しても厳しい態度を取り、1596年には長崎でキリスト教徒26人を処刑しています。
豊臣秀吉は豊臣政権が力をふるえるよう、多くのものを支配下に置けるように政策を行いました。
惣無事令であったり、禁教令を出したのもその一例です。
豊臣秀吉の有名な政策は、豊臣政権がずっと力を握っていられるよう、考え出されたものなのです。