戦国時代、天下人として豊臣秀吉は全国の大名たちを統治することに成功しました。
統治される側となった戦国大名たちにも、ただ豊臣秀吉に従うだけではなく、自らの権力をどう維持していくか、どう生き残っていくかを考え、豊臣秀吉についたほうがいいと判断したうえで従った人物も多くいました。
では、豊臣秀吉に従うことにした有名大名たちはどう動き、どんな結果となったのでしょうか。
越後の虎として
上杉謙信は戦国時代を生きた人物の中でも大きな力を持っていた戦国大名の一人です。
越後国の大名であった上杉謙信は、越後の虎といわれるほどの力と地盤を持った大名であり、川中島の戦いは現在でも有名です。
1551年に越後統一を成し遂げた上杉謙信はわずか22歳でした。
政虎、景虎、輝虎という名前も持っていた上杉謙信は、春日山城主として若くしてその国を統治していたのです。
上杉景勝はそんな上杉謙信の養子です。
実の父は上杉謙信の重臣である坂戸城主、長尾政尾。
母は上杉謙信の姉、仙桃院であり、その両親のもとに次男として誕生しました。
実の姉の子である上杉景勝を養子にもらった上杉謙信はとてもかわいがったといいます。
春日山城で直江兼続とともに上杉謙信のもとで学んだという上杉景勝。
のちに思いがけず若くして亡くなってしまった上杉謙信の跡継ぎとなり、越後国を率いていくのです。
豊臣秀吉に接近
上杉謙信の養子であり、跡継ぎとなった上杉景勝。
しかし、時代はどんどん先に進んでいき、豊臣秀吉が天下を獲るという大きな流れが起きます。
織田信長が亡くなり、織田信長の家臣であった豊臣秀吉と柴田勝家が対立した時は中立を貫いた上杉家。
しかし、豊臣秀吉が起こしたその大きな流れの中で上杉景勝は自身の権力を保つため、自分の地位を保つために豊臣秀吉に接近するという方法を選択します。
そして1586年、大阪城に豊臣秀吉を訪ね、養子である上杉養真を人質に差し出して豊臣秀吉に臣従したのです。
上杉景勝という大物を豊臣秀吉は自らお茶をたててもてなしたといいます。
権力を保ち続けるためには
自らの地位を保ち続けるため、豊臣秀吉に臣従するという方法をとった上杉景勝。
その結果、どうなったのでしょうか。
豊臣秀吉の家臣として、上杉景勝は五大老の中の一人にまで上り詰めます。
さらに昇進を重ね、1594年には中納言となりました。
越後の国の大名だったため、越後大名と呼ばれるようになったのです。
越後の国を統治していた上杉謙信。
そしてそのあとを継いだ上杉景勝。
時代を読み、自分たちの権力、地位を出来るだけ保つため、天下人である豊臣秀吉に臣従するという結論を出した上杉景勝ですが、その後の昇進を見れば、その決断は間違っていなかったといえるのです。