石山本願寺というと、織田信長と対立したところ、というイメージを強く持っている人が多いはず。
織田信長と石山本願寺の戦いは織田信長の勝利で終わりましたが、それから石山本願寺はどうなったのでしょうか。
そして、織田信長の後継者である豊臣秀吉との関係とは?
巨大勢力、信長に屈服
石山本願寺とは、蓮如が建立した摂津国にあった浄土真宗の寺院です。
戦国時代には、この石山本願寺を頂点として全国各地の浄土真宗の寺院や寺内町を拠点として、織田信長に反抗する勢力がありました。
そして、その勢力こそ織田信長の最大の敵だったのです。
のちの天下人、豊臣秀吉の主君である織田信長と、石山本願寺を頂点とする浄土真宗勢力がぶつかった戦いが1570年から1580年の10年にもわたって続いた石山合戦です。
この戦いでは石山本願寺に本願寺の主である顕如が立てこもって戦うなど、石山本願寺は戦いの舞台となっていました。
そして、石山合戦が終わり、織田信長が勝利を収めたのです。
大阪城の基盤は?
本能寺の変で織田信長が明智光秀によって襲撃されたあと、家臣であった豊臣秀吉は一気に権力を握り、織田信長の後継者として天下人の座へと駆け上がっていきました。
そんな豊臣秀吉が居城としたことで有名な大阪城は、実は織田信長と対立していた浄土真宗の石山本願寺があった場所に建っていました。
豊臣秀吉が大阪城を建てる場所として、廃墟となっていた石山本願寺の場所を選んだのです。
長い期間をかけて建てられた大阪城、そして城下町がその跡地に出来た為、今となっては石山本願寺の詳しい規模や構造はわからなくなっています。
しかし、その一方で、豊臣秀吉が建てた大阪城は石山本願寺を基盤としていたため、当時の石山本願寺がどんなものであったのか、大阪城を見ることで読み取れるものもあったのです。
後継者は三男?
かつては織田信長の家臣であった豊臣秀吉と、織田信長に敗れ、力をそがれていった石山本願寺の浄土真宗勢力。
豊臣秀吉は散り散りになっていた浄土真宗、その本願寺の後継者として三男の准如を指定します。
そして1591年には寺社寄進をして、廃墟となってしまった石山本願寺の代わりに新たに本願寺を建てました。
しかし、その本願寺を中心に跡継ぎ問題が起こり、豊臣秀吉が建てた本願寺は現在では西本願寺という名前になっています。
石山本願寺の勢力が一番巨大だったころ、織田信長の家臣であった豊臣秀吉。
しかし、織田信長亡き後天下人となった豊臣秀吉に比べ、逆に勢力を縮めてしまい、廃墟となってしまった石山本願寺の浄土真宗勢力。
戦国時代では、短い間に力関係が逆転する弱肉強食の時代だったことが豊臣秀吉と石山本願寺の関係から読み取れるのです。