全国統一を成し遂げ、天下人となった豊臣秀吉。
しかし、それだけではなく、晩年の豊臣秀吉は海を越え、他の国の侵略をもくろみました。
それが文禄・慶長の役です。
しかし、この文禄・慶長の役は豊臣秀吉の死によって終わりを迎えています。
その豊臣秀吉が朝鮮を侵略した際、最初に日本兵が上陸した場所が釜山でした。
文禄・慶長の役によって、釜山はどんな影響を受けたのでしょうか。
目次
文禄・慶長の役
天下人となった豊臣秀吉は晩年、朝鮮への侵攻を企て、実行したことで知られています。
始まりは1587年、豊臣秀吉は朝鮮に入貢と、明へ出兵するための先導を求めました。
しかし、それを拒否されたため、朝鮮への侵攻を開始するべく、肥前の名護屋に本陣を築き、1592年、日本から朝鮮に向けて15万余りの大軍を派遣したのです。
いくつかの軍に分けて日本兵が送り込まれましたが、当初、実は豊臣秀吉自身も朝鮮に向かう予定でいました。
しかし、いくつかの原因が重なり、豊臣秀吉が死を迎え、遂に朝鮮への侵攻が取りやめになるまで豊臣秀吉自身が朝鮮の地を踏むことはなかったのです。
朝鮮に向けて送り込まれた日本の兵士たちは最初にそれからの戦いで日本兵の輸送基地となる釜山に上陸しました。
こうして釜山に上陸して本格的に始まった豊臣秀吉の侵略を日本では文禄・慶長の役といいますが、それは日本側の呼び方です。
実は朝鮮側では呼び方が違います。
日本では文禄・慶長の役と呼ぶ戦いですが、この戦いを朝鮮側では「壬辰・丁酉倭乱」と呼ぶのです。
釜山上陸一番手は?
豊臣秀吉が始めた朝鮮の侵攻で一番最初に日本兵が上陸した場所である釜山。
朝鮮へはいくつかの軍が向かいましたが、釜山に一番に上陸した軍のトップは小西行長と宗義智でした。
そうして上陸した釜山で日本兵は朝鮮側と戦いを繰り広げ、戦いの末に小西行長たちは釜山鎮城を攻略するなどして釜山を征服していきました。
そうして豊臣秀吉によって送り込まれた日本兵が最初に上陸することになった釜山には、倭城などが次々と建てられていきました。
釜山の倭城
倭城とは、豊臣秀吉が朝鮮に送り込んだ日本兵によって築き上げられた日本式の城のことを指します。
文禄・慶長の役ではこのように拠点となる倭城が次々に建てられていきました。
もちろん、日本の軍が初めて朝鮮に上陸した場所である釜山も例外ではありません。
例えば釜山に建てられた倭城には釜山倭城があります。
これは最初に朝鮮に上陸した小西行長、そして宗義智が釜山鎮城を攻略した後、毛利輝元によって築かれた城です。
朝鮮、そして最初に日本の軍が上陸した釜山は後々日本側の輸送基地になるなど、様々な影響を残しました。
釜山などに残された倭城はそんな日本の豊臣秀吉による朝鮮侵略の痕跡の一つなのです。