天下人へと大出世を遂げた豊臣秀吉。
しかし、その天下は次の代には受け継がれませんでした。
豊臣秀吉が亡くなった後、豊臣家はほどなくして滅亡してしまうのです。
豊臣家が滅亡した大坂の陣とは?
そして豊臣秀吉の子、豊臣秀頼はどうなったのでしょうか。
目次
大坂の陣とは?
豊臣秀吉が亡くなった後、豊臣家の天下は長くは続きませんでした。
徳川家康が江戸幕府を開き、徐々に権力を大きくしていった結果、江戸幕府と豊臣家の間で大坂の陣と呼ばれる合戦が行われ、この合戦で豊臣家は滅亡してしまったのです。
この大坂の陣は2つの戦いに分けられます。
1614年の大坂冬の陣と1615年に行われた大坂夏の陣とをあわせて大坂の陣というのです。
大坂の陣が起こったのは豊臣秀吉が亡くなり、徳川家康が征夷大将軍となって江戸城を作り始めるなど、どんどん力をつけていた時の事でした。
その一方で豊臣秀吉亡き後の豊臣家も幕府に無断で朝廷から官位をもらったり、兵糧や浪人を集めるなど、戦の準備をしていたのです。
大坂の陣は、新旧二つの勢力が起こした、起こるべくして起きた戦いだったのです。
第一戦の結果は?
有名な方広鐘銘事件をきっかけに、徳川家康と豊臣家は本格的に対立し、大坂の陣が勃発しました。
大坂の陣の第一戦となる1614年の大坂冬の陣では、豊臣家が大阪城に籠城し、戦いを始めます。
大坂城にはいくつかの堀もあり、なかなか攻めにくい城でした。
そのためもあり、大坂の陣の第一戦はなかなか決着がつきませんでした。
徳川家康側は兵糧不足になり、対する豊臣家の方も兵糧や弾薬が不足していったのです。
そのため、和議を結び、徳川家康と豊臣家の間に起きた大坂の陣の第一戦は一応決着がついたのです。
豊臣家、滅亡へ
しかし、大坂の陣の第一戦の決着がついたといってもそれで終わりではありませんでした。
それほど間を置かずに大坂の陣の第二戦目が勃発するのです。
実は第一戦が終わった時、大坂城の外堀を埋めることが和睦の条件だったのですが、徳川家康側は外堀だけではなく、内堀も勝手に埋めてしまったのです。
これに反発した豊臣家。
こうして大坂の陣の第二戦目は始まってしまいます。
しかし、第一戦とは違い、第二戦目は十分な準備が出来ているとはいいがたい状態でした。
勝ち目がないとして大坂城を去る人物が多く、豊臣家の戦力がぐんと落ちていたこと、そして大阪城の堀が埋められていたことなどで劣勢に立たされていきます。
もともと、籠城戦では勝ち目がない、として野戦で戦うことを決めた豊臣家側ですが、最後は大阪城の内部にも徳川家康側の兵がなだれ込んだといいます。
そして天下人、豊臣秀吉の子、豊臣秀頼は母である淀殿と自害、大坂城は火事で焼け落ちてしまうのです。
豊臣秀吉がたった一代で築き上げた豊臣家は、豊臣秀吉の子、豊臣秀頼が大坂の陣で負け、自害したことによって滅亡してしまったのです。