豊臣秀吉は様々な政策を実行し、その大胆な策の多くは現代でもよく知られています。
そのうち、豊臣秀吉が行った大きな企ての中に文禄・慶長の役があります。
これは天下を取って日本を支配下に置いた豊臣秀吉が日本だけではなく、海外にまでその手を伸ばし始めたことを意味する出来事でした。
では、そんな豊臣秀吉によって行われた文禄・慶長の役はどのようなものだったのでしょうか。
天下を取った後の野望
卑賤の出から天下人となった豊臣秀吉ですが、実はその野望は日本で天下を取っただけでは終わりませんでした。
実は周辺諸国や西洋諸国の植民地に対して服属、入貢を要求していたのです。
それは明や朝鮮、インド、フィリピンや台湾などに書状を送っていることからもよく知られています。
そして、豊臣秀吉は朝鮮半島に軍を送り、中国に侵攻、明を倒したうえでアジア大陸を制圧し、北京に皇居を置いて天皇を移すという考えを持っていたのです。
そして、それを実行するために唐入りといわれる軍事作戦を始めます。
これが文禄・慶長の役のはじまりとなるのです。
唐入り開始
遂に世界に手を伸ばし始めた豊臣秀吉。
唐入りといわれる軍事作戦を始めたのは1591年のことでした。
甥の秀次に関白を譲り、唐入りに専念するために名古屋城を本拠地とするのです。
これ以降、豊臣秀吉は太閤と称される時期に入ります。
そして1592年の4月1日に文禄の役が始まるのです。
加藤清正などの九軍団、兵約十六万が釜山に上陸したことが始まりを告げます。
そして侵攻していきますが、明の大軍により、後退を余儀なくされ、請和交渉し、1593年に合意しますが、1596年、要求が満たされず豊臣秀吉が激怒、再び侵攻を開始するのです。
それは1598年の豊臣秀吉の死去まで続きます。
そして最終的には豊臣秀吉の死後、五大老が撤兵命令を下すまで続きました。
豊臣秀吉激怒の真相は?
請和交渉で合意した後、明の勅使に会い、要求が満たされず激怒したことが再び侵攻を開始するきっかけになったことはよく知られています。
詳しくは、大坂城で行われた明国勅使との対面で明の国書に激怒したといわれています。
しかし、これは作られた話であり、大坂城での対面は無事終わっていました。
実はその対面の後、堺に戻った勅使とのやり取りで激怒したということが真相です。
そこで請和交渉で決まった内容に反し、日中側の城塞の完全破却と軍勢の撤退を要求するという書簡を言付けされ、豊臣秀吉は激怒したのです。
豊臣秀吉が天下統一後に抱いたアジア大陸を制圧する野望のため、行われた文禄・慶長の役。
この文禄・慶長の役は豊臣秀吉の死去により撤退という結果に終わったのです。