豊臣秀吉にとっての毛利元就と毛利輝元

豊臣秀吉と深くかかわる武将の中に毛利輝元という人物がいます。

この毛利輝元の祖父は、戦国時代を生きた武将としてよく名を知られている毛利元就です。

毛利家は毛利元就のころには織田信長と親しくしていましたが、実は豊臣秀吉が活躍するようになってからは一度敵対しています。

しかし、やがて豊臣秀吉側につくようになり、遂には毛利輝元は五大老の一人に選ばれるほどまで信を得るのです。

では、そんな毛利家と豊臣秀吉とのかかわりを少し見てみましょう。

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謀将と呼ばれた毛利元就

戦国時代を生きた毛利元就は織田信長と親しくしていた戦国武将です。

27歳で家督を継ぎ、75歳で亡くなるまで、その生涯で行った功績は数多く、謀将とも称されます。

この毛利元就は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三傑に並び立つとされた人物でした。

山陰、そして山陽など十か国を領地にしており、その実力は折り紙付き。

毛利元就の三人の息子に対し一族団結の大切さを説いた教訓、三本の矢の教えは現代にも伝えられているほど有名な話となっています。

そんな毛利元就の長男は毛利隆元ですが、その息子、つまり毛利元就にとっては孫にあたる人物がのちに五大老の一人となる毛利輝元なのです。

元就にとって輝元は?

織田信長と同じ時代を生きた毛利元就、そしてその孫となる毛利輝元ですが、毛利輝元に対する毛利元就の評価は決して良いものではありませんでした。

毛利元就の毛利輝元に対する評価は不肖の孫というもので、周りの人にも毛利輝元に対する不満を言っていたと伝えられています。

では、その毛利輝元は一体どんな人物だったのでしょうか。

やがて五大老に!

偉大な戦国武将、毛利元就の孫となる毛利輝元。

毛利元就のころには織田信長と親しくしていたこともありましたが、毛利輝元のころになると織田信長側と対立していました。

しかし、織田信長が本能寺の変で死亡した後、豊臣秀吉が頭角を現してくると、状況が変わってきます。

織田信長が死亡し、柴田勝家と豊臣秀吉が対立し始め、遂に賤ケ岳の戦いで争うことになりました。

毛利輝元はその戦いには参加しなかったものの、勝者側の豊臣秀吉に戦勝祝いを贈っています。

織田信長側にいた豊臣秀吉とは一度対立していたものの、このころになると毛利輝元は豊臣秀吉側につくようになるのです。

そして最終的には豊臣秀吉の政権で五大老の一人に選ばれるまでに信頼を得た武将となりました。

祖父である毛利元就からは不肖の孫とされ、周りの人物に不満さえ漏らしていたとされる孫の毛利輝元。

戦国時代の有名武将である毛利元就の陰に隠れがちな毛利輝元ですが、力を持ち、成り上がっていく豊臣秀吉を見極め、勢力図が変わる時代を生き抜いた武将だったのです。

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