当時一番天下人に近い場所にいた織田信長が明智光秀によって殺されてしまった本能寺の変ですが、そのあとの明智光秀の天下は長くは続きませんでした。
本能寺の変の後に起きた山崎の戦いによって豊臣秀吉に倒されてしまったのです。
山崎の戦いによって豊臣秀吉は主君、織田信長のかたき討ちを成し遂げ、明智光秀の天下への道はつぶされてしまったのです。
織田信長の仇を討つ為に負けることのできない豊臣秀吉はこの山崎の戦いでは負けないように手を打っていました。
それは一体どんな手だったのでしょうか。
山崎の戦い=天王山の戦い
織田信長を倒した明智光秀と豊臣秀吉が戦い、豊臣秀吉が織田信長のかたき討ちを果たした戦いは山崎の戦いとして知られています。
しかし、かつては天王山の戦いと呼ばれていました。
その理由は、明智光秀を倒すために豊臣秀吉が陣を張ったのが天王山だったため。
しかしながら、実際主戦場となったのは天王山の麓の山崎だったため、山崎の戦いという名前で知られるようになったのです。
現在、何かの大きな転換点となる戦いのことを天王山の戦いと呼びますが、その由来は豊臣秀吉が明智光秀を破ったこの戦いにあったのです。
天下はたったの十二日!
本能寺の変で織田信長を倒した明智光秀を豊臣秀吉が倒すまではあっという間でした。
1582年、織田信長を倒した明智光秀でしたが、予想以上の速さで豊臣秀吉が自分のもとに向かっていることを知ります。
6月10日にその知らせを受け、味方を集めるなどの対策を行いますが、娘の嫁ぎ先の丹後の国の細川藤孝、忠興親子、そして光秀に恩がある筒井順慶に見捨てられるなど、思った通りにはいきませんでした。
そののち、11日には下鳥羽にもどり、勝竜寺城の整備を急ぎ、戦に備えますがその時点で明智光秀側の兵力が1万6千に対して豊臣秀吉側が4万だったと『太閤記』に記されています。
そして13日、山崎の戦いが始まるものの、2時間で光秀側の軍は総崩れとなり、明智光秀は夜になってから闇に紛れて本拠地の坂本城へ向かいますが、その途中で落ち武者狩りにあい、短い天下は終わりを告げました。
三日天下といわれる光秀の天下ですが、本当は12日間の天下だったのです。
秀吉のとった戦い方
織田信長の仇をとった山崎の戦いですが、豊臣秀吉が明智光秀に勝てたのはその圧倒的な兵力差以外にも理由があります。
まず、本能寺周辺にいなかった豊臣秀吉が明智光秀の予想以上の速さで迫ってきたこと。
その速さで明智光秀に準備させる時間を与えなかったのです。
さらに、明智光秀のもとへ向かう最中、豊臣秀吉は摂津国周辺の武将たちに対し、織田信長は本能寺を脱出して生きているという噂を流し、武将たちが明智光秀側につく事を阻止したのです。
いわば、豊臣秀吉は山崎の戦いで情報をも制し、全力で明智光秀を倒しにかかっていったのです。