戦国時代には現代でも名を知られているような有名な武将や大名が数多く世の中に誕生しましたが、なかでも天下人である豊臣秀吉の名は誰もが知っているほど。
数いる大名たちをおさえ、天下を獲ったことで有名となった豊臣秀吉の家臣のなかにも、戦国時代を代表する人物がいました。
そんな家臣の代表格ともいえる石田三成と黒田官兵衛ですが、両者の関係はどうだったのでしょうか。
秀吉に必要な人材
豊臣秀吉が天下を獲れたのは、戦略的に立ち回り、戦で勝ち上がっていったためですが、そんな豊臣秀吉を支える家臣の一人、黒田官兵衛は特に戦の勝利に貢献した人物です。
黒田官兵衛は豊臣秀吉の軍師であり、現代まで伝わっている豊臣秀吉の有名な戦の戦略のなかにも黒田官兵衛が軍師として作戦をたてたものが多いのです。
そうして豊臣秀吉の軍師として活躍した黒田官兵衛ですが、もう一人、豊臣秀吉の家臣として石田三成を外すことはできません。
石田三成も黒田官兵衛と同じく現代でもその名を知られている有名な人物であり、豊臣秀吉の家臣として活躍しました。
そんな石田三成が豊臣秀吉の家臣になったきっかけとして、豊臣秀吉が石田三成のお茶の出し方に感心したから、という逸話はよく知られています。
そんな細かい気遣いを買われた石田三成は豊臣秀吉の小姓として仕え、徐々に頭角を現していきました。
仲の悪さを示す逸話とは
そんな石田三成と黒田官兵衛ですが、実は同じ主に仕えていたのにもかかわらず、両者は仲が悪かったと伝えられています。
その仲の悪さを示す逸話が『黒田家譜』に残されています。
朝鮮出兵を行っていた頃、石田三成らが黒田官兵衛が泊まっているところを訪れ、戦について話し合いをするために対面したいと申し入れた時の事。
その時黒田官兵衛は浅井長政と碁を打っていました。
しかし、対面の申し入れにもかかわらず、すぐに対面せず碁を打ち続けたのです。
そのあまりの扱いに石田三成らは激怒。
豊臣秀吉に対しこのことを報告したといわれています。
黒田官兵衛と石田三成が仲が悪かったことを示すこの逸話。
しかし、この黒田家譜は江戸時代に成立しており、のちの世に書かれた文書ということもあり、真実かどうかはわかっていません。
ついに敵対!
豊臣秀吉の家臣である石田三成と黒田官兵衛。
主君豊臣秀吉亡き後、1600年に起こった関ケ原の戦いで遂に黒田家と石田三成は敵対して戦うことになりました。
関ケ原の戦いは結局、徳川家康についた黒田家を含めた東軍が勝利をおさめ、石田三成の西軍が敗北するという結果に終わります。
そして敗北した石田三成は処刑され、徳川家康側についた黒田家は続いていったのです。
黒田家譜などを見ると、仲が悪かったように思える石田三成と黒田官兵衛。
関ケ原の戦いでは敵対し、石田三成は処刑されてしまいますが、本当に黒田官兵衛と石田三成の仲が悪かったのかどうかは、詳しい資料もないため今も謎のままなのです。