真田幸村といえば、戦国の世で活躍し、「日本一の兵」と評される人物です。
のちに「日本一の兵」と評されるきっかけになった戦いに参加していた真田幸村は、豊臣側の武将として戦っていました。
天下をとった豊臣秀吉と、真田幸村とはどんな関係だったのでしょうか。
目次
幸村なんて存在しない?
のちに豊臣側の武将として戦うことになる真田幸村ですが、実は真田幸村という名前の人物は当時存在していませんでした。
ただ、真田幸村として有名になっている人物は存在します。
つまり、豊臣側の人物として日本一の兵と評される人物は存在していますが、真田幸村という名前ではなかったのです。
実は当時の史料には真田幸村という名はどこにも見当たりません。
現在、真田幸村として有名な人物の本名は真田信繁という名前の人物。
しかし、ここではこの真田信繁を真田幸村と認めたうえで話を進めていきましょう。
人質から豊臣姓?
真田幸村といえば、豊臣秀吉がかわいがっていた人物だと知っている方も多いと思います。
しかし、もともと真田幸村が豊臣秀吉と関わることになった当初、その立場は豊臣秀吉への人質という立場だったのです。
1567年に信濃の国上田城主、昌幸の次男として誕生した真田幸村は、父の真田昌幸が豊臣秀吉に服属することを決めた時に人質として出されているのです。
それが1585年の事であり、真田幸村が豊臣秀吉のもと、大坂城へ出仕することになったきっかけでした。
そして1590年には小田原攻めが起こります。
歴史に残るこの戦いには真田幸村も参陣しています。
真田幸村の初陣という説もあるこの小田原攻めで功績をあげることに成功した真田幸村は、その褒美として沼田領を正式に安堵されるのです。
更に豊臣秀吉が真田幸村のことをかわいがっていたことがわかる行動をとっています。
それが真田幸村に大坂の伏見に邸を与えたり、伏見城の普請役を任せていたりといった行動です。
豊臣秀吉が真田幸村をかわいがっていたことがわかる行動はそれだけではありません。
1594年には真田幸村に豊臣姓を授けるなどの特別扱いをしているのです。
また、真田幸村側でも豊臣秀吉の家臣の娘を正室にするなど、豊臣秀吉の信任を得ていたことがわかります。
豊臣秀吉のところへ人質としてやってきた真田幸村ですが、戦いで活躍し、豊臣姓を与えられるなど、年を経るにしたがって豊臣秀吉の信任を得ていったことがこの行動からわかるのです。
日本一の兵、真田幸村
人質としてやってきたのにもかかわらず、ついに豊臣秀吉の信任を得た真田幸村。
1615年に死亡するまで、豊臣秀吉側の武将として戦い続けることになります。
大坂夏の陣では豊臣側の武将として活躍を見せ、敵からも「日本一の兵」という評価を得るなど、その名を世に知らしめました。
豊臣秀吉のところへ人質として出仕しながら、最後には豊臣秀吉には手放せない重要人物となっていたのです。