戦国時代、豊臣秀吉が海外との貿易で力を入れた貿易があります。
それが当時ポルトガルやスペインと行っていた南蛮貿易です。
では、この時代に豊臣秀吉が力を入れていたその南蛮貿易とは一体どんなものだったのでしょうか。
そして、豊臣秀吉が南蛮貿易に力を入れていた理由とは?
目次
豊臣秀吉の進めた南蛮貿易
豊臣秀吉はポルトガル人やスペイン人と行っていた貿易を推奨していました。
この豊臣秀吉の生きていた時代は、ポルトガル人やスペイン人のことを南蛮人と呼んでいたため、この貿易の事を南蛮貿易といいます。
この南蛮貿易では、当時日本の生野銀山などから採れ、産出量も多かった銀を輸出しました。
当時世界で注目され、必要とされた銀を輸出するかわりに、日本は中国産の生糸などを仕入れていました。
この南蛮貿易では明から運ばれた品物をポルトガルやスペインを通して取引されており、いわゆる仲介貿易を行っていたのです。
つまり、南蛮貿易で日本はポルトガルやスペインを通し、その二つの国の品物だけではなく、明の品物なども仕入れていたのです。
そしてそんな南蛮貿易には豊臣秀吉が力を注いだ理由がありました。
経済力の源の一つ!
豊臣秀吉がこの南蛮貿易に力を注いでいたのは、この南蛮貿易が豊臣秀吉の経済力の源の一つだったからです。
1588年、九州を平定した豊臣秀吉はキリスト教会へ寄進されていた長崎を直轄領としました。
実はこの長崎には南蛮貿易を行っていた港があったため、南蛮貿易を利用して富を得ようと考えていた豊臣秀吉にとって重要な場所だったのです。
そのようにして豊臣秀吉は南蛮貿易を行う港がある長崎、そして堺などを豊臣秀吉自身の直轄領にしたうえ、そこの商人たちと密接な関係を築き上げました。
そして商人を通して南蛮貿易の利益の一部を得ていたのです。
当時力を持っていた豪商たちが積極的に海外へと繰り出し、多くの富を得ていたところに豊臣秀吉は目を付けたのです。
豪商たちの大きな力
当時、豊臣秀吉がその経済力を築けた大きな要因となった豪商たちは積極的に海外進出へと動いていました。
その豪商の中には、アモイに支店を作ったり、北京にまでお金を取り立てに行った堺の商人などがいて、その話が現代まで伝わっています。
小西隆佐などをはじめとしたそんな積極的な豪商たちが多く住んでいたのは博多、京都、堺など。
そして当時の東南アジアにも積極的に貿易船を出し、多くの富を得ていたのです。
豊臣秀吉は南蛮貿易を利用し、豪商たちに近づいて大きな経済力を築き上げました。
また、豪商たちも豊臣秀吉が推奨する南蛮貿易を利用して巨大な富を築いていました。
南蛮貿易は豪商にとって、そして豊臣秀吉にとって重要な財源だったのです。