日本の歴史で三英傑といえば、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康があげられます。
三人とも日本の歴史を振り返るときには必ず名前が出てくる人物です。
それぞれ大きな力を持ち、時代を作り上げてきた権力者ですが、いったいどんな出会いをして、どんな関係だったのでしょうか。
目次
信長のもとで出会った二人
天下人豊臣秀吉とそののちに太平の世を築き上げた徳川家康。
その二人がどのようにして出会い、どんな関係を築いていたのか、その鍵を握る人物は三英傑の一人、織田信長です。
織田信長にとって、のちの天下人となる豊臣秀吉は家臣であり、さらにその後に太平の世を築く徳川家康は同盟者という関係だったのです。
また、徳川家康はもともと6歳のころに人質として織田家に来ましたが、のちに同盟者となるという道を辿った人物です。
こうして織田信長の周りに家臣として豊臣秀吉が、そして同盟者として徳川家康が集まっているのです。
そして、詳しい事はわかってはいないものの、豊臣秀吉と徳川家康の出会いはその織田信長のもとにいたときだったとされています。
二人が織田信長のもとにいた1570年の金ヶ崎の撤退戦では豊臣秀吉と徳川家康が同じ戦場にいたため、少なくともその時点ではすでに出会い、同じ戦いを経験していたとされているのです。
従わない家康、秀吉は?
そして織田信長がこの世を去ってから豊臣秀吉と徳川家康の関係は一気に変化していきます。
最初の出会いは家臣と同盟者という関係でしたが、ここからは天下を目指す豊臣秀吉と、そのために邪魔となる徳川家康という関係が現れてくるのです。
豊臣秀吉は織田信長の後継者として順調に力をつけ、遂に関白に就任しましたが、徳川家康だけは1584年の小牧・長久手で戦ってから豊臣秀吉に従おうとはしませんでした。
そこで、豊臣秀吉はとある策を考えます。
戦国時代ではよく行われていた手段ですが、自身の妹、旭姫を正室として徳川家康に嫁がせているのです。
これにより、自分のもとに来るように徳川家康を招いたのですが、この手段は失敗に終わります。
そこでさらに実の母を人質として徳川家康のもとに送ったのです。
そしてその結果、ついに徳川家康は服属し、次男、秀康を豊臣秀吉に養子に出しているのです。
豊臣秀吉の墓、破壊される
そうして天下人として大きな権力を握った豊臣秀吉でしたが、その秀吉が亡くなり、やがて徳川家康が大きな権力をもつ世の中になります。
しかし、徳川家康は豊臣側との衝突を繰り返しました。
そんななか、徳川家康は豊臣秀吉の墓を破壊するようにと命令を下し、豊臣秀吉の墓は破壊されてしまいます。
豊臣秀吉と対立する関係を経て、服属し、豊臣秀吉が亡くなった後に遂に大きな権力を持つ側となった徳川家康。
しかし、豊臣秀吉が亡くなった後も警戒を緩めることはせず。豊臣秀吉の墓や豊臣秀吉を祀っているところを壊す命令を下したのです。
織田信長のもとで出会い、様々な関係を経てきた豊臣秀吉と徳川家康は、様々な立場の変化を繰り返し、最後まで複雑な関係であり続けたのです。