謎多き豊臣秀吉の父親

豊臣秀吉は天下を取って大きな権力を手にすることに成功しましたが、その一方で大きなコンプレックスを抱えていました。

それが、自分は名のある家の出ではないこと、卑賤の出から天下人に成り上がったことです。

豊臣秀吉はそのコンプレックスのためか、自分のことを日輪の子としてアピールしたりもしています。

生まれにコンプレックスを持つ豊臣秀吉にはその生まれに関して多くの説があり、いまだに謎に包まれた部分も多くあります。

実は父親に関しても多くの謎があるのです。

豊臣秀吉の父親に関する謎とは、どんなものなのでしょうか。

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父親はだれ?

豊臣秀吉の生まれは多くの謎に包まれています。

一般に言われている豊臣秀吉の両親は母親がなかという女性で、父親が織田信秀の足軽だといわれる木下弥右衛門です。

しかし、実はこれが真実かどうかさえ分かってはいないのです。

ここでささやかれている謎とは、豊臣秀吉の父親の職業は本当に織田家の足軽だったのかということ、そして木下弥右衛門が本当に豊臣秀吉の父親だったのかということ。

実は豊臣秀吉の本当の父親が誰だったのかということさえ本当のことはわかっていないのです。

その理由は、史料が多すぎることにありました。

多すぎる史料?

豊臣秀吉の謎に包まれた父親に関して本当のことがわかっていない理由の一端は史料が多すぎることにあります。

豊臣秀吉の実の父親が木下弥右衛門だとするのは『太閤素性記』などの資料です。

一方、豊臣秀吉の実の父親は母親の再婚相手である筑阿弥だと書かれているのは『太閤記』や『豊臣系図』など。

更には実は豊臣秀吉は天皇の御落胤だった、と書かれているのは『関白任官記』です。

他にも木下弥右衛門の職業は足軽だった、または貧農だったなど、様々な説が飛び交っているのです。

これらの史料は書いた人物も書かれた時期もばらばら。

では、なぜこんなに多くの説が流れるようになっていったのでしょうか。

書き換えたかった出自

豊臣秀吉は天下人である自分が卑賤の出であることをコンプレックスに持っていたといわれます。

そのひけ目を隠すため、豊臣秀吉は自分の出自を書き換えることを選んだのです。

実は天皇の御落胤だった、という説があることからわかるように、豊臣秀吉は自分の生まれを天下人となる人物にふさわしいものだと印象づけようとしたため、現代まで豊臣秀吉の実の父親の正体などで多くの説が作られ、伝えられてきたのです。

なかでも、豊臣秀吉は自分は日輪の子だ、というアピールをしたことからもそのことが強くうかがえます。

これは豊臣秀吉の母が、日輪が口に入る夢を見て懐妊した、というものであり、『甫庵太閤記』などにも書かれています。

豊臣秀吉は自分が天下人になるのにふさわしい人物だとアピールするために、自分の父親に関する身元などの話を創作し、流していたのです。

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