豊臣秀吉の天皇陛下の利用の仕方

天下をとった豊臣秀吉の出身は、由緒正しいとは言えない家柄でした。

妻を娶る際にも、義母となる人に卑賤の出だからと結婚を反対されていたことはよく知られています。

豊臣秀吉は戦国大名達との争いに勝ち、天下を取りましたが、どうしても出身だけは変えることが出来ません。

そこで豊臣秀吉がとった方法とは?

実は、豊臣秀吉は卑賤の出であるというコンプレックスを補うため、天皇陛下を利用したのです。

では、豊臣秀吉は天皇陛下をどのように利用して卑賤の出だというコンプレックスを解消したのでしょうか。

スポンサーリンク
hideyoshi-toyotomiレクタングル大

後陽成天皇との関係は?

豊臣秀吉は思い通りに周囲を動かすために度々天皇陛下を利用しました。

豊臣秀吉と関係が深く、よく利用される立場であった当時の天皇陛下は後陽成天皇です。

1586年から1611年まで在位した天皇陛下であり、豊臣秀吉が政権を握っていた時期と江戸幕府成立の時期をまたいでいた天皇陛下でした。

実は関白豊臣秀吉の養女として近衛前久の女前子が入内し、後陽成天皇の女御となったことから、豊臣秀吉は後陽成天皇と遠縁となっているのです。

当時、豊臣秀吉と後陽成天皇は利用し、利用されながらも良好な関係を築いていました。

聚楽第行幸は絶好の機会?

豊臣秀吉は戦国大名たちを支配するために関白、太閤の位を利用しています。

そして、関白の位は天皇陛下から賜るものだったので、関白として天皇陛下を尊重する必要がありました。

そこで初めて天皇の権威は意味をなしたのです。

豊臣秀吉が天皇陛下を利用した一例が、1588年に聚楽第に天皇陛下を招いたことだといえます。

その時の天皇陛下の行幸の予定は当初3日間でしたが、実際は5日間もの宴を行っています。

そしてその時、豊臣秀吉は諸大名に3カ条の誓紙をとり、天皇陛下と一緒に豊臣秀吉にも忠誠を誓わせているのです。

その誓紙には3カ条目に関白秀吉の命に背かない、という一文があり、この一文を認めさせることこそ豊臣秀吉の目的でした。

このように豊臣秀吉は天皇の権威、そして関白の位を利用した策略をたてていたのです。

征伐の理由は天皇に?

更に豊臣秀吉は天皇陛下への忠誠心を大名たちをまとめ、自分に従わせるだけではなく、武力での征伐にも利用しました。

例えば九州征伐や小田原攻めもそうやって大軍を動かした征伐だったのです。

関白として天皇から全国の支配権を託された、と自らを称する豊臣秀吉は戦国大名に停戦を命じ、両国の確定を秀吉に任せることを強制していましたが、その命令に従わなければ、天皇陛下の停戦の意思に背いた、として大軍を差し向けたのです。

このように豊臣秀吉は武力を使った征伐でも、自分に忠誠を誓わせる策略にも天皇陛下の権威を利用していったのです。

自らが卑賤の出であることが大きなコンプレックスとなっていた豊臣秀吉ですが、代わりに様々な戦略や策略に天皇陛下の権威を利用することによって、天下人へと成り上がっていたのです。

スポンサーリンク
hideyoshi-toyotomiレクタングル大

hideyoshi-toyotomiレクタングル大

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする