1596年、豊臣秀吉が生きていた時代に京都で起こった伏見大地震。
その大地震の大きさ、ひどさは様々な資料によって現在まで伝えられています。
豊臣秀吉もそんな伏見大地震の被害にあいました。
では、豊臣秀吉はそんな伏見大地震にあった時にどうしていたのでしょうか。
目次
伏見大地震の被害とは?
豊臣秀吉も被害にあった伏見大地震とは、1596年、9月5日の子の刻に現在の京都である山城国伏見を襲った大きな地震です。
その被害は大きく、多くの建物、例えば東寺、そして天龍寺もこの地震によって倒壊しました。
建物の被害だけではなく人に対する被害も大きく、京都の犠牲者は1000人を超えると伝えられています。
現代でも使われる地震の大きさでいうのならば、その地震はマグニチュード7を超えるほどの大きさだったのです。
地震当時の秀吉は?
豊臣秀吉はその伏見大地震の被害にあっていました。
被害にあった場所は豊臣秀吉が隠居後の住まいにする予定だった城、伏見城。
実はこの城、伏見大地震によって天守が崩れてしまうという被害を受けています。
まさにその伏見城で豊臣秀吉は伏見大地震にあってしまったのです。
江戸時代前期の史書『当代記』には伏見城内だけでも数百人が死亡したとされています。
被害にあった豊臣秀吉は、その後無事だった台所で一晩を明かし、伏見城から木幡山に向かい、避難しています。
伏見大地震で大きな被害を受け、数百人の被害者を城内で出しつつも生き延びた豊臣秀吉ですが、本当にぎりぎりのところで難を逃れていたのです。
地震に備えた秀吉
伏見大地震の被害にあった豊臣秀吉ですが、実はそれより以前にも大きな地震にあっています。
それが1586年に起きた天正地震です。
当時日本にいて、様々なことを書き残しているルイス・フロイスもその時の豊臣秀吉の様子も書き残しています。
そのように大きな地震を経験していた豊臣秀吉は地震の恐ろしさというものを身にしみてわかっていました。
そのことがのちに伏見城を建てる際に「ナマズ対策を万全にしろ」、つまり地震対策をしっかりせよという命令を出していたことから伺えるのです。
しかし、伏見大地震は大きく、せっかく築いた伏見城の天守は崩れ落ちるという結果に終わってしまいました。
また、この伏見大地震での加藤清正の有名なエピソードが語り継がれています。
それは当時謹慎中だった加藤清正が地震後一番に城に駆け付け、その忠誠心に胸をうたれた豊臣秀吉が加藤清正の謹慎をといた、という話です。
豊臣秀吉を二度にわたって襲った大地震。
1596年に起こった伏見大地震では城内で多くの死者を出した伏見城にいながらも何とか生き延びました。
しかし、天下人となった豊臣秀吉であっても、自然の猛威の前ではなすすべもなかったのです。