豊臣秀吉は天下を取り、全国の大名たちを支配下に置くことに成功しました。
そんな豊臣秀吉が政治を行う上で、そばにいて政務の一端を担った人物たちがいます。
その人物たちとは一体誰だったのでしょうか。
そして、その役目とは?
目次
五大老とは?
豊臣秀吉は天下人となって様々なお触れや仕組みを作り、政治を進めていました。
そんな豊臣秀吉の周りを固め、政務の一端を担った役目が五奉行と五大老です。
豊臣秀吉の腹心の家臣たちが担ったのが五奉行、そして当時の有力大名たちが担ったのが五大老という地位でした。
豊臣秀吉によってつくられたこの五大老、そして五奉行という役割ですが、五大老はその名前の通り5人の人物がその地位についていました。
その5人とは、東川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、そして、宇喜多秀家のこと。
この五大老と五奉行は豊臣秀吉が亡くなったあとは朝鮮出兵していた兵たちの撤兵指示を出すなど、実質的な指揮をとっています。
そんな重要な地位にあった五大老ですが、実は5人ではなかったのです。
本当は6人だった?
豊臣秀吉によって作られ、その職務の一端を担った五大老に五奉行。
五大老は5人いたことは広く知られていますが、実は6人目も存在していました。
その6人目が小早川隆景です。
では、6人いたのならなぜ六大老ではなく五大老となったのでしょうか。
それは、豊臣秀吉が自らの職務の一端を担う五大老という制度を整える前に小早川隆景が亡くなってしまったからです。
亡くなってしまった小早川隆景の後を埋める形で、上杉景勝が五大老の一人となったのです。
五大老の人数が6人ではなかったのには小早川隆景の死という理由があったのです。
すべては子のため
豊臣秀吉によって作られた制度である五大老と五奉行。
その2つは合議制であり、五大老と五奉行とお互いを補いつつ政治を行っていました。
その五大老と五奉行は1597年ごろにつくられたとされていますが、それは豊臣秀吉にとって晩年に当たる時期でした。
この制度が作られたのは豊臣秀吉の全盛期のころではなかったのです。
実は天下を取った豊臣秀吉は独裁に近い政治体系をひいていました。
では、いったい豊臣秀吉は晩年になってなぜ五大老や五奉行という制度を作ったのでしょうか。
実は、豊臣秀吉がこの五大老や五奉行というシステムを生み出したのは、自分の死んだ後に天下をわが子、豊臣秀頼に引き継がせようと考えたからだとされています。
豊臣秀頼はまだ幼く、政治を行える年齢ではありませんでした。
そのため、豊臣秀頼を支える者たちとして、五大老、五奉行というシステムを作ったというのです。
すべては自分が亡くなった後のわが子の未来のため。
豊臣秀吉が五大老、五奉行という制度を作ったのにはわが子への愛情があってこそだったのです。